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第六十六話:駒となった兄
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ベルナルド・フォン・ヴェルヘイムの日常は、あの日を境に一変した。彼は表向きは変わらず兄アルフォンスの忠実な弟として振る舞っていたが、その内実はアッシュという名の恐怖に支配された哀れな操り人形に過ぎなかった。
週に一度、彼は人目を忍んで『北風商会』の裏口を訪れた。そこで待つジョセフに、アルフォンス派の内部情報を記した密書を手渡す。それが彼に課せられた新たな「義務」だった。
『兄上はミュラー財務卿失脚の打撃から立ち直れていない。残った派閥の貴族たちを繋ぎ止めるため、新たな資金源を探し焦っている』
『先日、商業ギルドの新興勢力と密会。見返りに特定の地域の通行税を引き下げる約束を交わした模様』
『私に対しアッシュの動向を探るよう、再三にわたり命じてきている。兄上は私が裏切っているとは夢にも思っていない』
ベルナルドがもたらす情報は驚くほど正確で、そして詳細だった。彼は長年アルフォンスの右腕として派閥の暗部にも深く関わってきた。その彼が内部から情報を流すのだ。アッシュにとってこれほど価値のある情報源はなかった。
アッシュはその情報を巧みに利用した。
アルフォンスが新たな資金源として目をつけた商会があれば、改革派のキルヒアイスを通じてその商会の過去の不正を暴かせる。
アルフォンスが味方に引き入れようとしている貴族がいれば、その貴族の弱みを握り先に寝返らせてしまう。
アルフォンスが打つ手、打つ手はことごとく事前に読まれ、潰されていった。彼はまるで目に見えない壁に囲まれているかのような閉塞感に苛まれ始めた。
「なぜだ……! なぜ私の考えることがことごとくあの小僧に漏れているのだ!」
アルフォンスの猜疑心は、今や派閥の残党たちにまで向けられ始めた。彼は自分の周りにいる全ての人間がアッシュのスパイではないかと疑い始めたのだ。
『北風商会』の地下室。アッシュはベルナルドからの最新の報告書を読みながら、チェスの駒を動かしていた。
「兄上が駒を動かす前に俺がその駒を奪ってしまう。これでは勝負にすらならんな」
その声は冷徹で、何の感情もこもっていなかった。
傍らに立つセレスティアは、その光景を複雑な表情で見つめていた。
「……あなた、本当にそこまでするのね。実の兄を駒として弄んで……」
彼女の感情にはアッシュへの「畏怖」と共に、拭いがたい「嫌悪感」が混じっていた。
「彼は俺を殺そうとした。俺は彼を生かしている。どちらがより人道的かな?」
アッシュは皮肉げに言い返した。
「それにこれは復讐ではない。ただの合理的な戦略だ。敵の内部に協力者を作るのは情報戦の基本だろう」
セレスティアは何も言い返せなかった。アッシュの論理は常に正しく、そして冷酷だった。
アッシュはベルナルドをただの情報源として使うだけでは飽き足らなかった。彼はベルナルドをアルフォンス派を内部から崩壊させるための強力な「毒」として使うことにした。
アッシュはベルナルドに新たな指示を与えた。
『兄上にこう進言しろ。「派閥の結束を固めるため、我々にまだ忠誠を誓っている貴族たちを集め盛大な夜会を開くべきだ」と』
ベルナルドはその指示の意図が分からなかったが、恐怖に支配された彼に断るという選択肢はなかった。彼は兄アルフォンスに弟の筋書き通りの提案をした。
落ち込んでいたアルフォンスは、その提案に飛びついた。派閥の健在ぶりを誇示し揺らいでいる求心力を取り戻すための絶好の機会だと考えたのだ。
数週間後、ヴェルヘイム邸ではアルフォンス派の残党たちが集う華やかな夜会が開かれた。
だがその雰囲気はどこかぎこちなく、互いに腹を探り合うような緊張感に満ちていた。
その夜会にアッシュは招かれていなかった。だが彼の「目」と「耳」はその場にいた。
ベルナルドがアッシュの指示通りに動いていたのだ。
彼は派閥のナンバー2である侯爵にこう囁いた。
「……兄上は近頃、あなたのことを疑っているようですぞ。『ミュラー卿の失脚は彼の裏切りが原因ではないか』と……」
次に軍を掌握する将軍にこう耳打ちした。
「……アッシュ侯爵が次に狙っているのは軍の利権だと聞きました。兄上はあなたを切り捨ててアッシュと手を結ぶつもりかもしれません」
ベルナルドはアッシュが事前に用意した巧妙に真実と嘘を織り交ぜた偽情報を、派閥の有力者たちの間に次々と蒔いて回った。
それは彼らの心に巣食う「不安」と「猜疑心」を最大限に増幅させる悪魔の囁きだった。
夜会が終わる頃には、アルフォンス派の貴族たちの心は完全に疑心暗鬼に支配されていた。
互いが互いを信じられず、誰もが「裏切り者は誰だ」と疑いの目を向け合っていた。アルフォンスが望んだ派閥の結束は、皮肉にも彼自身が主催した夜会によって決定的に引き裂かれたのだ。
アッシュはベルナルドからの報告を受け、満足げに頷いた。
「城は外から攻めるよりも、内側から崩す方が遥かに容易い」
兄ベルナルドという内部に仕掛けられた時限爆弾。その爆発によってアルフォンスの築き上げた城は、今や砂上の楼閣と化していた。
アッシュの復讐は最終段階へと近づいていた。
彼は兄アルフォンスに最後の一撃を与えるための、最も残酷でそして最も効果的な罠を静かに仕掛け始めていた。
それはアルフォンスが自らの手で自らの破滅の引き金を引くように仕向ける完璧な筋書きだった。
週に一度、彼は人目を忍んで『北風商会』の裏口を訪れた。そこで待つジョセフに、アルフォンス派の内部情報を記した密書を手渡す。それが彼に課せられた新たな「義務」だった。
『兄上はミュラー財務卿失脚の打撃から立ち直れていない。残った派閥の貴族たちを繋ぎ止めるため、新たな資金源を探し焦っている』
『先日、商業ギルドの新興勢力と密会。見返りに特定の地域の通行税を引き下げる約束を交わした模様』
『私に対しアッシュの動向を探るよう、再三にわたり命じてきている。兄上は私が裏切っているとは夢にも思っていない』
ベルナルドがもたらす情報は驚くほど正確で、そして詳細だった。彼は長年アルフォンスの右腕として派閥の暗部にも深く関わってきた。その彼が内部から情報を流すのだ。アッシュにとってこれほど価値のある情報源はなかった。
アッシュはその情報を巧みに利用した。
アルフォンスが新たな資金源として目をつけた商会があれば、改革派のキルヒアイスを通じてその商会の過去の不正を暴かせる。
アルフォンスが味方に引き入れようとしている貴族がいれば、その貴族の弱みを握り先に寝返らせてしまう。
アルフォンスが打つ手、打つ手はことごとく事前に読まれ、潰されていった。彼はまるで目に見えない壁に囲まれているかのような閉塞感に苛まれ始めた。
「なぜだ……! なぜ私の考えることがことごとくあの小僧に漏れているのだ!」
アルフォンスの猜疑心は、今や派閥の残党たちにまで向けられ始めた。彼は自分の周りにいる全ての人間がアッシュのスパイではないかと疑い始めたのだ。
『北風商会』の地下室。アッシュはベルナルドからの最新の報告書を読みながら、チェスの駒を動かしていた。
「兄上が駒を動かす前に俺がその駒を奪ってしまう。これでは勝負にすらならんな」
その声は冷徹で、何の感情もこもっていなかった。
傍らに立つセレスティアは、その光景を複雑な表情で見つめていた。
「……あなた、本当にそこまでするのね。実の兄を駒として弄んで……」
彼女の感情にはアッシュへの「畏怖」と共に、拭いがたい「嫌悪感」が混じっていた。
「彼は俺を殺そうとした。俺は彼を生かしている。どちらがより人道的かな?」
アッシュは皮肉げに言い返した。
「それにこれは復讐ではない。ただの合理的な戦略だ。敵の内部に協力者を作るのは情報戦の基本だろう」
セレスティアは何も言い返せなかった。アッシュの論理は常に正しく、そして冷酷だった。
アッシュはベルナルドをただの情報源として使うだけでは飽き足らなかった。彼はベルナルドをアルフォンス派を内部から崩壊させるための強力な「毒」として使うことにした。
アッシュはベルナルドに新たな指示を与えた。
『兄上にこう進言しろ。「派閥の結束を固めるため、我々にまだ忠誠を誓っている貴族たちを集め盛大な夜会を開くべきだ」と』
ベルナルドはその指示の意図が分からなかったが、恐怖に支配された彼に断るという選択肢はなかった。彼は兄アルフォンスに弟の筋書き通りの提案をした。
落ち込んでいたアルフォンスは、その提案に飛びついた。派閥の健在ぶりを誇示し揺らいでいる求心力を取り戻すための絶好の機会だと考えたのだ。
数週間後、ヴェルヘイム邸ではアルフォンス派の残党たちが集う華やかな夜会が開かれた。
だがその雰囲気はどこかぎこちなく、互いに腹を探り合うような緊張感に満ちていた。
その夜会にアッシュは招かれていなかった。だが彼の「目」と「耳」はその場にいた。
ベルナルドがアッシュの指示通りに動いていたのだ。
彼は派閥のナンバー2である侯爵にこう囁いた。
「……兄上は近頃、あなたのことを疑っているようですぞ。『ミュラー卿の失脚は彼の裏切りが原因ではないか』と……」
次に軍を掌握する将軍にこう耳打ちした。
「……アッシュ侯爵が次に狙っているのは軍の利権だと聞きました。兄上はあなたを切り捨ててアッシュと手を結ぶつもりかもしれません」
ベルナルドはアッシュが事前に用意した巧妙に真実と嘘を織り交ぜた偽情報を、派閥の有力者たちの間に次々と蒔いて回った。
それは彼らの心に巣食う「不安」と「猜疑心」を最大限に増幅させる悪魔の囁きだった。
夜会が終わる頃には、アルフォンス派の貴族たちの心は完全に疑心暗鬼に支配されていた。
互いが互いを信じられず、誰もが「裏切り者は誰だ」と疑いの目を向け合っていた。アルフォンスが望んだ派閥の結束は、皮肉にも彼自身が主催した夜会によって決定的に引き裂かれたのだ。
アッシュはベルナルドからの報告を受け、満足げに頷いた。
「城は外から攻めるよりも、内側から崩す方が遥かに容易い」
兄ベルナルドという内部に仕掛けられた時限爆弾。その爆発によってアルフォンスの築き上げた城は、今や砂上の楼閣と化していた。
アッシュの復讐は最終段階へと近づいていた。
彼は兄アルフォンスに最後の一撃を与えるための、最も残酷でそして最も効果的な罠を静かに仕掛け始めていた。
それはアルフォンスが自らの手で自らの破滅の引き金を引くように仕向ける完璧な筋書きだった。
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