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第六十八話:最後の誘惑
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アルフォンス・フォン・ヴェルヘイムが敵国との密貿易の現行犯で捕らえられたというニュースは、帝都に最後の、そして最大の衝撃を与えた。ヴェルヘイム公爵家の次期当主であり、完璧な貴公子と謳われた男のあまりにもあっけない失墜。誰もがその報せを信じられないという顔で受け止めた。
だが、証拠は完璧だった。現場にはグランツ帝国の印が押された偽の魔石の箱と、アルフォンスが用意した金貨が残されていた。買収された宿の主人の証言も、彼の罪を裏付けていた。
この一件は、アッシュが事前に流布していた「アルフォンスは弟への嫉妬に狂っている」という物語に、完璧な結末を与えた。
民衆はこう解釈した。
「アルフォンス様は、弟君への嫉妬のあまり正気を失ってしまったのだ」
「全てを失い焦った挙句に、売国という大罪に手を染めてしまったとは……憐れな」
彼らはアルフォンスを非難するよりも、むしろ同情した。だが、その同情は敗者に対する無価値な憐れみでしかなかった。アルフォンス・フォン・ヴェルヘイムという存在は、帝国の政治の舞台から完全に退場したのだ。
アッシュは兄が捕らえられた後も、表向きは何の動きも見せなかった。彼はただ静かに、帝都の世論が熟すのを待っていた。彼はアルフォンス個人を破滅させることが目的ではなかった。彼の本当の狙いは、その背後にある腐敗したシステムそのものだった。
数日後。アッシュはついに最後の行動を起こした。
彼はヴェルヘイム邸の父グレイグの書斎を訪れた。アッシュがこの部屋に入るのは、罪人として断罪され追放されて以来、初めてのことだった。
書斎の中では、父グレイグがまるで抜け殻のように椅子に座っていた。この数日で彼は一気に老け込んだように見えた。かつての威厳はなく、ただの全てを失った老人の姿がそこにあった。
彼の感情は、「絶望:99」「無力感:95」「後悔:80」。
「……何の用だ」
グレイグはアッシュの顔を見ようともせず、力なく呟いた。
「昔話をしに来ました、父上」
アッシュは静かに答えると、グレイグの向かいの椅子に許可なく腰を下ろした。
「あなたは常に勝者であることを求めてきた」
アッシュは淡々と語り始めた。
「優秀な長男と武勇に優れた次男。彼らはあなたの誇りだった。あなたの勝利の象徴だった。だから、あなたは彼らを愛した」
「……」
「そして俺は、あなたの敗北の象徴だった。魔力もなく剣の才能もない、出来損ないの三男。だから、あなたは俺を憎み、無視した。俺が存在すること自体が、あなたの完璧な人生の汚点だったからだ」
アッシュの言葉は刃物のように、グレイグの心の最も深い部分を抉り出していく。
「あなたは俺たち息子を、人間として見てはいなかった。ただ、ヴェルヘイム家という名のチェス盤の上の駒としてしか見ていなかった。使える駒と、使えない駒。ただそれだけだ」
「黙れ……」
グレイグが呻くように言った。
「黙りませんよ」
アッシュの声は冷たかった。
「あなたのその価値観が、アルフォンス兄上を破滅させたのです。彼はあなたの期待に応えようと、常に完璧な勝者であろうとし続けた。そして負け犬である俺の存在が、彼のプライドを歪ませ嫉妬の怪物へと変えてしまった。彼を殺したのは俺じゃない。あなただ、父上」
その言葉は決定的な一撃だった。
グレイグの肩がわななくと震えた。彼の顔が絶望と後悔に歪む。彼はこの時初めて、自分が犯した過ちの大きさに気づいたのかもしれない。
「だが、まだ間に合う」
アッシュはそこで声のトーンを変えた。まるで悪魔が救いの手を差し伸べるかのように。
「ヴェルヘイム家をこのまま滅亡させるわけにはいかない。あなたにはまだ最後に果たせる役目がある」
「……役目、だと?」
「そうだ」
アッシュは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは彼が事前に用意しておいた、公爵位の譲渡に関する書類だった。
「あなたは公爵の地位を退き、隠居する。そして次期公爵として、俺を指名する。それがあなたがヴェルヘイム家のためにできる、最後の仕事です」
それは命令であり、最後通牒だった。
グレイグはその書類を震える手で受け取った。
彼にはもはや断るという選択肢はなかった。アルフォンスは反逆者となり、ベルナルドはアッシュの恐怖に支配されている。この家を継げる者はもはやアッシュしかいない。
そして何より、彼自身もはや公爵としての責務を負う気力など残っていなかった。
「……分かった」
グレイグは力なく頷いた。
彼は震える手でペンを取り、その書類に自らの名を署名した。
その瞬間、ヴェルヘイム公爵家の時代は一つの終わりを告げた。
そして新たな時代が、静かに幕を開けたのだ。
アッシュは署名された書類を受け取ると、静かに立ち上がった。
彼はもはや抜け殻となった父に、何の感情も抱いてはいなかった。憎しみも憐れみも。ただ、そこにあるのは一つの取引を終えたという、ビジネスライクな満足感だけだった。
「では、ごゆっくり隠居生活をお楽しみください。……父上」
アッシュは最後の言葉を残し、書斎を後にした。
彼の背後で、グレイグ・フォン・ヴェルヘイムはただ静かに嗚咽を漏らしていた。
アッシュはヴェルヘイム公爵家の新たな当主となった。
かつて自分を追放した家の頂点に立ったのだ。
彼の復讐は完璧な形で完遂された。
だが、彼の心に喜びや達成感が満ちることはなかった。
そこにあったのは、ただ空虚な静けさだけだった。
彼は自分が本当に求めていたものが、この復讐の先にはないのかもしれないと、この時初めて漠然と感じ始めていた。
だが、証拠は完璧だった。現場にはグランツ帝国の印が押された偽の魔石の箱と、アルフォンスが用意した金貨が残されていた。買収された宿の主人の証言も、彼の罪を裏付けていた。
この一件は、アッシュが事前に流布していた「アルフォンスは弟への嫉妬に狂っている」という物語に、完璧な結末を与えた。
民衆はこう解釈した。
「アルフォンス様は、弟君への嫉妬のあまり正気を失ってしまったのだ」
「全てを失い焦った挙句に、売国という大罪に手を染めてしまったとは……憐れな」
彼らはアルフォンスを非難するよりも、むしろ同情した。だが、その同情は敗者に対する無価値な憐れみでしかなかった。アルフォンス・フォン・ヴェルヘイムという存在は、帝国の政治の舞台から完全に退場したのだ。
アッシュは兄が捕らえられた後も、表向きは何の動きも見せなかった。彼はただ静かに、帝都の世論が熟すのを待っていた。彼はアルフォンス個人を破滅させることが目的ではなかった。彼の本当の狙いは、その背後にある腐敗したシステムそのものだった。
数日後。アッシュはついに最後の行動を起こした。
彼はヴェルヘイム邸の父グレイグの書斎を訪れた。アッシュがこの部屋に入るのは、罪人として断罪され追放されて以来、初めてのことだった。
書斎の中では、父グレイグがまるで抜け殻のように椅子に座っていた。この数日で彼は一気に老け込んだように見えた。かつての威厳はなく、ただの全てを失った老人の姿がそこにあった。
彼の感情は、「絶望:99」「無力感:95」「後悔:80」。
「……何の用だ」
グレイグはアッシュの顔を見ようともせず、力なく呟いた。
「昔話をしに来ました、父上」
アッシュは静かに答えると、グレイグの向かいの椅子に許可なく腰を下ろした。
「あなたは常に勝者であることを求めてきた」
アッシュは淡々と語り始めた。
「優秀な長男と武勇に優れた次男。彼らはあなたの誇りだった。あなたの勝利の象徴だった。だから、あなたは彼らを愛した」
「……」
「そして俺は、あなたの敗北の象徴だった。魔力もなく剣の才能もない、出来損ないの三男。だから、あなたは俺を憎み、無視した。俺が存在すること自体が、あなたの完璧な人生の汚点だったからだ」
アッシュの言葉は刃物のように、グレイグの心の最も深い部分を抉り出していく。
「あなたは俺たち息子を、人間として見てはいなかった。ただ、ヴェルヘイム家という名のチェス盤の上の駒としてしか見ていなかった。使える駒と、使えない駒。ただそれだけだ」
「黙れ……」
グレイグが呻くように言った。
「黙りませんよ」
アッシュの声は冷たかった。
「あなたのその価値観が、アルフォンス兄上を破滅させたのです。彼はあなたの期待に応えようと、常に完璧な勝者であろうとし続けた。そして負け犬である俺の存在が、彼のプライドを歪ませ嫉妬の怪物へと変えてしまった。彼を殺したのは俺じゃない。あなただ、父上」
その言葉は決定的な一撃だった。
グレイグの肩がわななくと震えた。彼の顔が絶望と後悔に歪む。彼はこの時初めて、自分が犯した過ちの大きさに気づいたのかもしれない。
「だが、まだ間に合う」
アッシュはそこで声のトーンを変えた。まるで悪魔が救いの手を差し伸べるかのように。
「ヴェルヘイム家をこのまま滅亡させるわけにはいかない。あなたにはまだ最後に果たせる役目がある」
「……役目、だと?」
「そうだ」
アッシュは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは彼が事前に用意しておいた、公爵位の譲渡に関する書類だった。
「あなたは公爵の地位を退き、隠居する。そして次期公爵として、俺を指名する。それがあなたがヴェルヘイム家のためにできる、最後の仕事です」
それは命令であり、最後通牒だった。
グレイグはその書類を震える手で受け取った。
彼にはもはや断るという選択肢はなかった。アルフォンスは反逆者となり、ベルナルドはアッシュの恐怖に支配されている。この家を継げる者はもはやアッシュしかいない。
そして何より、彼自身もはや公爵としての責務を負う気力など残っていなかった。
「……分かった」
グレイグは力なく頷いた。
彼は震える手でペンを取り、その書類に自らの名を署名した。
その瞬間、ヴェルヘイム公爵家の時代は一つの終わりを告げた。
そして新たな時代が、静かに幕を開けたのだ。
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彼の背後で、グレイグ・フォン・ヴェルヘイムはただ静かに嗚咽を漏らしていた。
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だが、彼の心に喜びや達成感が満ちることはなかった。
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