無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第九十一話:「虚無」の精神攻撃

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アッシュの意識は、冷たい水の底へと沈んでいくようだった。仲間たちの声も、祭壇の間の禍々しい気配も、全てが遠ざかっていく。やて、彼の意識が再び浮上した時、そこに広がっていたのは見慣れた、そして二度と見たくなかったはずの光景だった。

蛍光灯が白々しく照らすオフィス。
ディスプレイの明かりだけが煌々と光る深夜。
鳴りやまない電話の音と、積み上げられた書類の山。
それは、彼が過労死した前世の会社の光景そのものだった。

『……まだ、終わっていなかったのか……』
アッシュの心に深い絶望が滲んだ。異世界への転生など、全ては死の間際に見た都合の良い夢だったのではないか。結局、自分はこの地獄から一歩も抜け出せていなかったのではないか。

その時、背後から声がした。
「お疲れ様、アッシュ君。悪いが、この資料も明日の朝までにお願いできるかな」
それは、前世で彼を最も苦しめた上司の声だった。その声は、アッシュの心に鉛のような重りを括り付ける。

アッシュは、震える手でキーボードを叩こうとした。だが、指が動かない。体中の筋肉が意思に反して硬直していく。
(違う……これは幻だ……)
頭の片隅で、冷静な自分が叫んでいる。だが、目の前の光景はあまりにもリアルだった。鼻をつく埃の匂い、コーヒーの苦い香り、そして体に染み付いた慢性的な疲労感。その全てが、ここが現実であると彼の五感に訴えかけてきていた。

「どうしたのかね、アッシュ君」
今度は、反対側から別の声がした。それは父グレイグの声だった。だが、その姿は公爵ではなく、前世の会社の社長の姿をしていた。
「君には期待していたのだがね。これでは、我が社の『出来損ない』と言われても仕方がないな」

父の言葉が、兄アルフォンスの嘲笑と重なる。
「出来損ないに期待するだけ無駄ですよ」
「お前は、我が家の汚点だ」

過去のトラウマが、次々と彼の精神を蝕んでいく。
それは『虚無の導師』による精神攻撃だった。導師はアッシュの記憶の最も深い部分に侵入し、彼の最も弱い部分、最も傷つきやすい部分を的確に抉り出していたのだ。

『お前は、どこへ行っても同じだ』
導師の声が、アッシュの脳内に直接響き渡る。
『前の世界でも、今の世界でも。お前は常に誰かに利用され、誰かに見下され、そして誰からも理解されることなく、孤独に死んでいく』

「違う……!」
アッシュは叫んだ。
「俺には仲間がいる!俺を信じてくれる仲間たちが!」

『仲間、だと?』
導師は嘲笑った。
『リリアはお前を恐怖で縛り付けているだけだ。ガイウスはお前の力を利用して、自らの復讐を果たそうとしているだけだ。セレスティアはお前の危険性を理解し、いずれお前を排除するだろう。彼らは、お前を仲間だと思ってなどいない。ただ、互いの利害のために一時的に手を組んでいるに過ぎん』

その言葉は、アッシュが心の奥底で抱いていた人間不信という名の毒を、最大限に増幅させた。
本当に、そうではないと言い切れるのか?
彼らは本当に俺を信じているのか?
それとも、俺のスキルがもたらす利益に惹かれているだけではないのか?

疑念が彼の心を蝕んでいく。
仲間たちの顔が次々と歪んでいく。リリアの純粋な瞳が計算高い光を宿し、ガイウスの忠誠が野心へと変わり、セレスティアの信頼が侮蔑へと反転する。

『そうだ。それでいい』
導師の声が優しく囁きかける。
『お前は結局、どこにいても独りなのだ。誰も信じられず、誰にも信じられず、ただ一人で意味のない戦いを続ける。それがお前の運命だ』

「やめろ……」

『さあ、全てを諦めろ。戦うことなど無意味だ。お前の求める安楽な生活などどこにも存在しない。ならば、全てを『無』に還すことこそが、お前にとっての唯一の救済となるだろう』

虚無の囁きが、アッシュの心の最後の砦を崩壊させようとしていた。
彼の赤い瞳から光が消えていく。闘志も、復讐心も、仲間への想いさえも、全てが意味のないものに思えてきた。

そうだ。もう疲れた。
戦うのも、考えるのも、もううんざりだ。
いっそ、このまま全てを終わらせてしまえば……。

アッシュの意識が、完全な闇へと飲み込まれようとしていた。

祭壇の間。
仲間たちの目には、アッシュが突然その場に膝から崩れ落ち、虚空を見つめて微動だにしなくなったように見えた。その体からは生命力が急速に失われ、銀色の髪は色褪せ、肌は死人のように白くなっていく。
「アッシュ様!」
「アッシュ!」
リリアとセレスティアが駆け寄るが、その体は氷のように冷たい。

「無駄だ」
虚無の導師が静かに告げた。
「彼の魂は今、自らが作り出した絶望の牢獄の中で永遠に彷徨う。もはや、誰の声も届きはしない」

アッシュの精神は、風前の灯火だった。
彼の物語は、ここで静かに幕を閉じようとしていた。
世界の終わりを前に、彼自身がまず終わりを迎えようとしていたのだ。
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