無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第九十話:祭壇の間

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絶望の番人を打ち破った代償は大きかった。一行は満身創痍となり、歩を進める足取りは鉛のように重い。だが、彼らの瞳から闘志の火は消えていなかった。互いの肩を貸し、傷を庇い合いながら、彼らは最後の試練へと続く道を一歩、また一歩と進んでいった。

道は緩やかな下り坂となっていた。壁には不気味な蛇の紋様がいくつも刻まれ、その奥から流れ出してくる負のエネルギーの奔流は、肌を刺すように濃密になっていく。

やがて、一行は巨大な鍾乳洞のような広大な空間へとたどり着いた。
その光景に、誰もが息を呑んだ。

空間の中央には黒曜石を切り出して作られた巨大な円形の祭壇が鎮座していた。祭壇の表面には無数の溝が複雑な紋様を描いており、その溝の中を血のように赤い光が脈打つように流れている。
そして、祭壇の上空には巨大な黒い水晶が鎖によって吊り下げられていた。帝都中から集められた負の感情が黒い霧となってその水晶へと吸い込まれ、水晶は不気味な輝きを放っている。

「……これが、『触媒』」
セレスティアがかすれた声で呟いた。

そして、その祭壇の中心に一人の男が立っていた。
背を向け、ただ静かに黒い水晶を見上げている。その全身は星のない夜空のような漆黒のローブに包まれていた。フードを深く被っており、その顔を窺い知ることはできない。
だが、その男から放たれる気配は、アッシュがこれまで感じてきたどんな存在とも異質だった。そこには怒りも憎しみも嫉妬さえもなかった。ただ全てを飲み込む、宇宙空間のような絶対的な『虚無』が広がっているだけだった。

「……よくぞここまでたどり着いた、招かれざる客人たちよ」
男は振り返ることなく、静かな声で言った。その声は年齢も感情も感じさせない不思議な響きを持っていた。

「貴様が、『奈落の蛇』の指導者か」
ガイウスが剣を構えながら問い詰めた。

「いかにも」
男はゆっくりとこちらに振り返った。
フードの奥から現れたのは仮面だった。それはどんな特徴もない、のっぺりとした白い仮面。ただ、そこには見る者の心を吸い込むような二つの空虚な穴が開いているだけだった。
「私は『虚無の導師』。この古き世界に終わりを告げる者だ」

『虚無の導師』。
七人の幹部を束ねる結社の頂点に立つ存在。彼こそが最後の試練。

「儀式はすでに最終段階に入っている」
導師は上空の黒い水晶を指差した。
「あと数分で新月の刻が訪れる。その瞬間、この触媒に溜め込まれた帝都百万の民の絶望と憎悪は臨界点を迎え、奈落への扉をこじ開けるだろう。もはや貴様らにできることは何もない」

その言葉には絶対的な自信が満ちていた。
「なぜ、こんなことをする!」
セレスティアが怒りを込めて叫んだ。
「世界を破滅させて、あなたたちに何の得があるというの!」

「得、だと?」
導師は初めて感情らしきものを見せた。それは心からの嘲笑だった。
「我らは何も求めぬ。富も名誉も権力も。我らが望むはただ一つ。この矛盾と苦痛に満ちた不完全な世界を、完全なる『無』へと還すこと。それこそが究極の救済なのだ」

その狂気に満ちた思想に一行は戦慄した。
こいつはこれまでの敵とは違う。欲望も憎しみもない。ただ純粋な、世界そのものへの『虚無』に突き動かされている。

「戯言を」
アッシュは一歩前に出た。
「お前が何を語ろうと、俺は俺の安楽な生活を脅かすものを見過ごすつもりはない。お前のその下らない儀式、今ここで完全に破壊させてもらう」

「……面白い」
導師はアッシュの赤い瞳を見つめた。
「お前か。イザベラとアウグストを屠り、我らの計画を乱し続けた異分子は。お前の魂は他の者たちとは違う色をしている。興味深い……」

導師は仮面の下で静かに呟いた。
「よかろう。ならば最後の試練を与えてやろう。お前のその異質な魂が、真の『虚無』に耐えられるかどうか試させてもらう」

彼がそう言った瞬間、祭壇の間に満ちていた負のエネルギーの奔流がその流れを変えた。
その全てが、ただ一点――アッシュを目掛けて殺到し始めたのだ。

それは物理的な攻撃ではなかった。
より直接的で、そして防ぎようのない精神への攻撃だった。

「アッシュ様!」
「アッシュ!」
仲間たちの悲鳴が遠ざかっていく。
アッシュの視界がぐにゃりと歪み、意識が急速に現実から乖離していくのを感じていた。
彼はもはや祭壇の間にはいなかった。
最後の試練、『虚無』の精神攻撃が始まろうとしていた。
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