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第4話:机上の農業革命
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幸いなことに、リリアナの容態は急激な悪化を食い止められた。
俺が指示した原始的な看護が功を奏したのか、あるいは彼女自身の生命力が強かったのか。熱は依然として高いままだが、少なくとも命の危険は脱したように見えた。家族は俺の突飛な行動に半信半疑ながらも、結果として最悪の事態を免れたことに安堵していた。
リリアナの枕元で、俺は静かに思考を巡らせていた。
妹が倒れた直接の原因は感染症だ。だが、その根本にあるのは、この領地に蔓延する二つの大きな問題。「栄養失調」と「不衛生な環境」。
今回の対症療法は、いわば堤防の穴を手で塞いでいるに過ぎない。このままでは、またいつリリアナが、あるいは他の誰かが倒れてもおかしくない。
問題を根本から解決する必要がある。
衛生環境の改善は急務だ。石鹸を作りたい。だが、そのためには安定した油脂とアルカリが必要になる。食料すら事欠く現状では、材料の確保もままならない。
ならば、まず取り組むべきは食料問題の解決だ。
腹が満たされれば、人々の体力も免疫力も向上する。収穫が増えれば、領地の財政も潤う。全ての好循環は、まず「食う」ことから始まる。
決意を固めた俺は、リリアナの容態が小康状態になったのを見計らい、父の元へ向かった。
「父上、書斎をお借りしたいのですが」
「書斎を? 何に使うのだ」
訝しげな父に、俺はまっすぐな目で見つめ返した。
「この領地を救うための計画を、立てるためです」
父は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、何かを諦めたように小さく頷いた。今の俺の異常さを、彼も受け入れ始めているのかもしれない。
父の書斎は、領地の歴史そのものだった。
本棚には革の表紙が擦り切れた古書が並び、中には数十年分の収穫量や税収を記録した台帳もあった。俺はそれらを片っ端から引っ張り出し、羊皮紙の上にデータを書き出していく。
数字は雄弁だった。十年、二十年という単位で、小麦の収穫量は緩やかに、しかし確実に右肩下がりを描いている。典型的な連作障害の症状だ。
前世の知識が、頭の中で爆発的に結合していく。
プラントエンジニアとして培った体系的な問題解決能力。趣味で読み漁った世界史の知識。週末に見ていた農業ドキュメンタリー。バラバラだった情報が、アシュフォード領という具体的な問題を前に、一つの体系的な計画へと収斂していく。
必要なのは、革命だ。農業における、静かなる革命。
俺は羊皮紙に炭を走らせた。
一つ目の矢、「三圃式農業」。
この世界の農業は、土地を二つに分け、片方で麦を作り、もう片方を休ませる二圃式が主流のようだ。これでは土地の半分しか活用できていない。
俺は土地を三分割する図を描いた。
第一の畑には、秋蒔きの小麦を。
第二の畑には、春に大麦か、あるいは窒素を土壌に固定するマメ科の植物を植える。
そして第三の畑は、完全に休ませて家畜の放牧地とする。
これを一年ごとにローテーションさせる。これにより、常に土地の三分の二を活用でき、単純計算で生産性は1.5倍になる。さらにマメ科植物を植えることで、土地の栄養バランスも改善される。
二つ目の矢、「緑肥」。
休ませている土地に、ただ雑草を生やしておくのはもったいない。そこにクローバーやレンゲソウのような、根に窒素固定菌を持つ植物を植えるのだ。そして花が咲く頃に、そのまま畑に鋤き込んでやる。それだけで、土は劇的に肥沃になる。金のかからない、天然の肥料だ。
そして、三つ目の矢、「鉄製改良犂」。
これが最も重要だった。書斎の窓から畑を眺めると、農夫たちが使っているのは木製の貧弱な犂だ。あれでは、土地の表面を浅く引っ掻くことしかできない。それでは雑草の根は断ち切れず、土もすぐに固くなってしまう。
俺は新しい犂の設計図を描いた。
刃の部分は、この領地でも少量だが産出する鉄を使う。そして最も重要なのは、その形状だ。土をただ切り裂くだけでなく、深く掘り起こし、そして反転させるための「撥土板(はつどばん)」と呼ばれるパーツを取り付ける。
これを使えば、土地の深くまで空気が入り、水はけが良くなる。地中深くに残った雑草の種子や根も、土の表面に晒されて枯死する。眠っている大地の力を、根こそぎ引き出すための道具だ。
数時間、俺は一心不乱に羊皮紙に向かっていた。
三つの計画の概要、図解、期待される効果。それらを数枚の羊皮紙にまとめ上げた時、書斎の扉が軋む音を立てた。父が心配して様子を見に来たのだ。
「リオ、まだやっていたのか。一体何を……」
父の言葉は、テーブルの上に広げられた羊皮紙を見て途切れた。そこには、彼が見たこともない図やグラフ、そしてびっしりと書き込まれた文字が並んでいた。
「父上、ちょうど良いところへ。お話があります」
俺は立ち上がり、プレゼンテーションを開始した。
「まずはこちらをご覧ください。これは過去二十年の、我が領地の小麦の収穫量の推移です」
俺は台帳から書き出した数字の羅列を指し示す。
「ご覧の通り、年々収穫は減り続けています。父上、なぜだと思われますか」
「それは……土地が痩せているからだろう。長年使い続けたのだから、仕方のないことだ」
「その通りです。土地も人間と同じで、働き続ければ疲弊します。同じものばかり食べさせれば、栄養が偏って病気になる。今、この領地の畑は、まさにその状態なのです」
俺は三圃式の図を広げた。
「そこで、この方法を提案します。畑を三つに分け、順番に違う作物と休息を与えるのです。土地を休ませることに抵抗があるかもしれません。ですがこれは、次なる飛躍のために力を蓄える期間なのです。さらに、休ませている間も家畜の餌となる牧草を育てることで、土地を無駄なく活用できます」
父は眉間に深い皺を寄せ、黙って聞き入っている。
次に俺は、緑肥の計画書を見せた。
「そして、これが土地を若返らせる秘策です。特定の草を植え、それを土に鋤き込む。たったそれだけで、痩せた土が豊かな土へと生まれ変わるのです」
「草を……土に? 馬鹿な、そんなことで畑が良くなるものか」
「なります。草の根が土の中に養分を蓄え、それが天然の肥料となるのです。金もかからず、手間もかからない。やらない手はありません」
そして最後に、俺は改良犂の設計図を父の目の前に突きつけた。
「そして、これが我々の革命の切り札です。新しい犂。刃を鉄にし、土を深く、力強く掘り返すためのものです。今の犂では、我々はこの大地の持つ力の、半分も引き出せていません。この犂があれば、収穫量は倍、いや三倍になる可能性すらあります」
熱を帯びた俺の言葉に、父は完全に圧倒されていた。子供の戯言として聞き流すには、あまりにも具体的で、理論的だった。
しばらくの沈黙の後、父は絞り出すような声で言った。
「……なぜだ。リオ。なぜ、お前がそのようなことを知っている。まるで、何十年も農業を研究してきた学者のようではないか」
当然の疑問だ。
俺はためらわず、用意していた答えを口にした。
「熱にうなされていた時、夢を見ました。夢の中で、光輝く何者かが、私にこの領地を救うための知恵を授けてくださったのです。神の啓示、としか言いようがありません」
この世界で最も受け入れられやすい、都合のいい言い訳だ。
父は俺の顔をじっと見つめていた。その青い瞳の奥で、常識と、目の前の異常な現実が激しくせめぎ合っているのが分かった。
やがて彼は、長く、深い息を吐いた。
「……分かった」
その声には、疲労と、そしてわずかな希望が滲んでいた。
「信じよう。いや、今の我々には、お前のその言葉を信じるしか道はない」
父は立ち上がり、窓の外に広がる痩せた領地を見渡した。
「領地の西の端に、今は使っていない小さな畑がある。そこをお前の好きに使え。実験農地だ」
「ありがとうございます、父上」
「だが、勘違いするな。私が許可しても、長年働いてきた農夫たちが、十歳の子供であるお前の言うことを素直に聞くとは思えん。彼らを動かすのは、お前自身の仕事だぞ」
父の言葉はもっともだった。計画はできた。許可も得た。だが、一番の難関はこれからだ。
俺は父の言葉に、力強く頷いた。
「問題ありません」
その声には、自分でも驚くほどの自信が満ちていた。
「俺が、彼らを動かしてみせます」
机上の空論は、もう終わりだ。明日からは、泥にまみれることになる。
だが、不思議と心は晴れやかだった。
この手で、未来を切り拓ける。その確信が、俺の全身を奮い立たせていた。
俺が指示した原始的な看護が功を奏したのか、あるいは彼女自身の生命力が強かったのか。熱は依然として高いままだが、少なくとも命の危険は脱したように見えた。家族は俺の突飛な行動に半信半疑ながらも、結果として最悪の事態を免れたことに安堵していた。
リリアナの枕元で、俺は静かに思考を巡らせていた。
妹が倒れた直接の原因は感染症だ。だが、その根本にあるのは、この領地に蔓延する二つの大きな問題。「栄養失調」と「不衛生な環境」。
今回の対症療法は、いわば堤防の穴を手で塞いでいるに過ぎない。このままでは、またいつリリアナが、あるいは他の誰かが倒れてもおかしくない。
問題を根本から解決する必要がある。
衛生環境の改善は急務だ。石鹸を作りたい。だが、そのためには安定した油脂とアルカリが必要になる。食料すら事欠く現状では、材料の確保もままならない。
ならば、まず取り組むべきは食料問題の解決だ。
腹が満たされれば、人々の体力も免疫力も向上する。収穫が増えれば、領地の財政も潤う。全ての好循環は、まず「食う」ことから始まる。
決意を固めた俺は、リリアナの容態が小康状態になったのを見計らい、父の元へ向かった。
「父上、書斎をお借りしたいのですが」
「書斎を? 何に使うのだ」
訝しげな父に、俺はまっすぐな目で見つめ返した。
「この領地を救うための計画を、立てるためです」
父は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、何かを諦めたように小さく頷いた。今の俺の異常さを、彼も受け入れ始めているのかもしれない。
父の書斎は、領地の歴史そのものだった。
本棚には革の表紙が擦り切れた古書が並び、中には数十年分の収穫量や税収を記録した台帳もあった。俺はそれらを片っ端から引っ張り出し、羊皮紙の上にデータを書き出していく。
数字は雄弁だった。十年、二十年という単位で、小麦の収穫量は緩やかに、しかし確実に右肩下がりを描いている。典型的な連作障害の症状だ。
前世の知識が、頭の中で爆発的に結合していく。
プラントエンジニアとして培った体系的な問題解決能力。趣味で読み漁った世界史の知識。週末に見ていた農業ドキュメンタリー。バラバラだった情報が、アシュフォード領という具体的な問題を前に、一つの体系的な計画へと収斂していく。
必要なのは、革命だ。農業における、静かなる革命。
俺は羊皮紙に炭を走らせた。
一つ目の矢、「三圃式農業」。
この世界の農業は、土地を二つに分け、片方で麦を作り、もう片方を休ませる二圃式が主流のようだ。これでは土地の半分しか活用できていない。
俺は土地を三分割する図を描いた。
第一の畑には、秋蒔きの小麦を。
第二の畑には、春に大麦か、あるいは窒素を土壌に固定するマメ科の植物を植える。
そして第三の畑は、完全に休ませて家畜の放牧地とする。
これを一年ごとにローテーションさせる。これにより、常に土地の三分の二を活用でき、単純計算で生産性は1.5倍になる。さらにマメ科植物を植えることで、土地の栄養バランスも改善される。
二つ目の矢、「緑肥」。
休ませている土地に、ただ雑草を生やしておくのはもったいない。そこにクローバーやレンゲソウのような、根に窒素固定菌を持つ植物を植えるのだ。そして花が咲く頃に、そのまま畑に鋤き込んでやる。それだけで、土は劇的に肥沃になる。金のかからない、天然の肥料だ。
そして、三つ目の矢、「鉄製改良犂」。
これが最も重要だった。書斎の窓から畑を眺めると、農夫たちが使っているのは木製の貧弱な犂だ。あれでは、土地の表面を浅く引っ掻くことしかできない。それでは雑草の根は断ち切れず、土もすぐに固くなってしまう。
俺は新しい犂の設計図を描いた。
刃の部分は、この領地でも少量だが産出する鉄を使う。そして最も重要なのは、その形状だ。土をただ切り裂くだけでなく、深く掘り起こし、そして反転させるための「撥土板(はつどばん)」と呼ばれるパーツを取り付ける。
これを使えば、土地の深くまで空気が入り、水はけが良くなる。地中深くに残った雑草の種子や根も、土の表面に晒されて枯死する。眠っている大地の力を、根こそぎ引き出すための道具だ。
数時間、俺は一心不乱に羊皮紙に向かっていた。
三つの計画の概要、図解、期待される効果。それらを数枚の羊皮紙にまとめ上げた時、書斎の扉が軋む音を立てた。父が心配して様子を見に来たのだ。
「リオ、まだやっていたのか。一体何を……」
父の言葉は、テーブルの上に広げられた羊皮紙を見て途切れた。そこには、彼が見たこともない図やグラフ、そしてびっしりと書き込まれた文字が並んでいた。
「父上、ちょうど良いところへ。お話があります」
俺は立ち上がり、プレゼンテーションを開始した。
「まずはこちらをご覧ください。これは過去二十年の、我が領地の小麦の収穫量の推移です」
俺は台帳から書き出した数字の羅列を指し示す。
「ご覧の通り、年々収穫は減り続けています。父上、なぜだと思われますか」
「それは……土地が痩せているからだろう。長年使い続けたのだから、仕方のないことだ」
「その通りです。土地も人間と同じで、働き続ければ疲弊します。同じものばかり食べさせれば、栄養が偏って病気になる。今、この領地の畑は、まさにその状態なのです」
俺は三圃式の図を広げた。
「そこで、この方法を提案します。畑を三つに分け、順番に違う作物と休息を与えるのです。土地を休ませることに抵抗があるかもしれません。ですがこれは、次なる飛躍のために力を蓄える期間なのです。さらに、休ませている間も家畜の餌となる牧草を育てることで、土地を無駄なく活用できます」
父は眉間に深い皺を寄せ、黙って聞き入っている。
次に俺は、緑肥の計画書を見せた。
「そして、これが土地を若返らせる秘策です。特定の草を植え、それを土に鋤き込む。たったそれだけで、痩せた土が豊かな土へと生まれ変わるのです」
「草を……土に? 馬鹿な、そんなことで畑が良くなるものか」
「なります。草の根が土の中に養分を蓄え、それが天然の肥料となるのです。金もかからず、手間もかからない。やらない手はありません」
そして最後に、俺は改良犂の設計図を父の目の前に突きつけた。
「そして、これが我々の革命の切り札です。新しい犂。刃を鉄にし、土を深く、力強く掘り返すためのものです。今の犂では、我々はこの大地の持つ力の、半分も引き出せていません。この犂があれば、収穫量は倍、いや三倍になる可能性すらあります」
熱を帯びた俺の言葉に、父は完全に圧倒されていた。子供の戯言として聞き流すには、あまりにも具体的で、理論的だった。
しばらくの沈黙の後、父は絞り出すような声で言った。
「……なぜだ。リオ。なぜ、お前がそのようなことを知っている。まるで、何十年も農業を研究してきた学者のようではないか」
当然の疑問だ。
俺はためらわず、用意していた答えを口にした。
「熱にうなされていた時、夢を見ました。夢の中で、光輝く何者かが、私にこの領地を救うための知恵を授けてくださったのです。神の啓示、としか言いようがありません」
この世界で最も受け入れられやすい、都合のいい言い訳だ。
父は俺の顔をじっと見つめていた。その青い瞳の奥で、常識と、目の前の異常な現実が激しくせめぎ合っているのが分かった。
やがて彼は、長く、深い息を吐いた。
「……分かった」
その声には、疲労と、そしてわずかな希望が滲んでいた。
「信じよう。いや、今の我々には、お前のその言葉を信じるしか道はない」
父は立ち上がり、窓の外に広がる痩せた領地を見渡した。
「領地の西の端に、今は使っていない小さな畑がある。そこをお前の好きに使え。実験農地だ」
「ありがとうございます、父上」
「だが、勘違いするな。私が許可しても、長年働いてきた農夫たちが、十歳の子供であるお前の言うことを素直に聞くとは思えん。彼らを動かすのは、お前自身の仕事だぞ」
父の言葉はもっともだった。計画はできた。許可も得た。だが、一番の難関はこれからだ。
俺は父の言葉に、力強く頷いた。
「問題ありません」
その声には、自分でも驚くほどの自信が満ちていた。
「俺が、彼らを動かしてみせます」
机上の空論は、もう終わりだ。明日からは、泥にまみれることになる。
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