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第3話:守りたい、この笑顔
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父から領地の厳しい実情を聞かされてから、数日が過ぎた。
俺はリオ・アシュフォードとして、この屋敷での生活に順応しようと努めていた。だがそれは苦痛の連続だった。木のヘラで尻を拭う行為には、いまだに鳥肌が立つ。味のないスープと硬いパンの食事は、もはや作業と化していた。
前世の記憶が鮮明な分、この世界の不便さや貧しさが、心をじわじわと蝕んでいく。
このままではダメだ。何か行動を起こさなければ。
そう思う一方で、何から手をつければいいのか分からなかった。問題が多すぎて、どこから手を付ければいいのか見当もつかない。巨大な負債を前に、ただ立ち尽くすような無力感。俺は無気力なまま、時間だけを浪費していた。
そんなある朝のことだ。
いつものように殺風景な食堂に家族が集まったが、一つだけ空席があった。妹のリリアナがいない。
「リリアナはどうしたんだ」
父が母に尋ねると、母は心配そうな顔で答えた。
「昨夜から少し咳をしていて。今朝は熱があるようなので、部屋で休ませています」
その言葉が終わらないうちに、侍女が慌てた様子で食堂に駆け込んできた。その顔は真っ青だった。
「奥様、旦那様! リリアナ様の様子がおかしいのです! 息が、とても苦しそうで……」
食堂の空気が一瞬で凍り付く。
母が悲鳴のような声を上げて立ち上がり、俺たちもそれに続いた。
リリアナの部屋に駆け込むと、そこにはベッドの上で小さく体を丸め、苦しげに喘ぐ妹の姿があった。
「ゼェ……ヒュー……」
喉から漏れる音は、空気がうまく肺に届いていないことを示していた。額には脂汗が浮かび、頬は不健康に赤く染まっている。
「リリアナ! しっかりしなさい!」
母が必死に呼びかけるが、リリアナの目は虚ろで、焦点が合っていない。
父はすぐに領内の薬草師を呼びにやったが、この世界に現代のような専門医はいない。薬草師ができることなど、たかが知れている。
俺はリリアナの側に膝をつき、その様子を観察した。高い熱、激しい咳、そして呼吸困難。症状から察するに、おそらく肺炎だろう。栄養状態の悪い子供がかかれば、命に関わる病気だ。
前世の日本であれば。
病院に連れて行けば、すぐに診断が下る。抗生物質を投与すれば、数日で回復に向かうはずだ。助かるのが当たり前の、ごくありふれた病気。
だが、ここは違う。
ここには病院も、抗生物質もない。
やがて到着した薬草師は、リリアナを診察した後、いくつか薬草を煎じた苦い汁を飲ませた。だがそれは気休めにしかならない。症状は一向に改善せず、むしろ悪化していくように見えた。
「神よ……どうかこの子をお救いください……」
母はベッドの傍らで祈り、父は固く拳を握りしめて窓の外を睨んでいる。兄たちも、いつもの意地の悪さは消え失せ、ただ青い顔で立ち尽くすだけだ。
誰もが、無力だった。
神に祈ることしかできない。運命に身を委ねるしか、術がないのだ。
俺も、その一人だった。
知識はある。原因も、治療法も、頭の中にはっきりと存在している。ペニシリンがあれば。点滴で栄養補給ができれば。この小さな命は、たやすく救えるのに。
その知識が、この世界では何の役にも立たないという事実が、俺の心を締め付けた。
前世で当たり前のように享受していた医療技術が、どれほど尊いものだったか。失って初めて、その価値を痛感する。
トイレが汚いとか、飯がまずいとか、そんな不満は贅沢な悩みだった。
今、目の前で起きていることこそが、この世界の本当の理不尽だ。
助かるはずの命が、ただ「この時代に生まれた」というだけで、あっけなく失われようとしている。
そんなことが、あってたまるか。
俺はリリアナの小さな手を握った。熱く、か細い手だった。この手が、冷たくなっていくのを黙って見ていることなど、絶対にできるはずがない。
スローライフ? 自分の快適な暮らし?
ふざけるな。
大切な家族一人守れない世界で、自分だけが快適に生きて何の意味がある。
俺の心の中で、何かが音を立てて燃え上がった。
絶望や無気力といった、冷たい感情が焼き尽くされていく。代わりに宿ったのは、燃えるような怒りと、鋼のような決意だった。
「もう誰も失ってたまるか」
俺は立ち上がった。
そして、部屋にいる全員に聞こえるように、はっきりとした声で言った。
「俺が、リリアナを助ける」
家族全員の視線が、俺に突き刺さる。驚き、困惑、そして子供の戯言だと見なすような憐れみの色。
だが、今の俺にはどうでもよかった。
「母上、すぐに厨房から綺麗な布と、沸かしたお湯を持ってきてください。塩もひとつまみ。それと、部屋の窓を開けて空気を入れ替えます」
「リオ? あなた、何を……」
「いいから早く!」
俺の気迫に押されたのか、母は戸惑いながらも侍女に指示を出す。
俺は薬草師が置いていった水差しを手に取り、中身を床にぶちまけた。そして、侍女が持ってきた清潔な水で満たし、リリアナの枕元に置く。
「病人の周りを不潔にしてどうする。感染症の基本だ」
前世の知識が、断片的に蘇る。
まずは対症療法だ。脱水症状を防ぐための経口補水液。体を清潔に保ち、体力を消耗させないこと。
できることは限られている。だが、何もしないよりは百万倍マシだ。
俺は濡らした布で、リリアナの汗を優しく拭ってやる。
「大丈夫だ、リリアナ。兄ちゃんが、絶対に助けてやるからな」
それは自分に言い聞かせるための、誓いの言葉だった。
この不条理な世界で生き抜く。そして、大切な家族を守り抜く。
そのためなら、俺は持てる知識の全てを使い、この世界そのものを変えてみせる。
リオ・アシュフォードの体を得て、ただ絶望していた俺の魂は、この瞬間、本当の意味でこの世界に生まれ落ちた。
小さな妹の命を救うという、たった一つの目的のために。
俺の戦いは、今この時から始まったのだ。
俺はリオ・アシュフォードとして、この屋敷での生活に順応しようと努めていた。だがそれは苦痛の連続だった。木のヘラで尻を拭う行為には、いまだに鳥肌が立つ。味のないスープと硬いパンの食事は、もはや作業と化していた。
前世の記憶が鮮明な分、この世界の不便さや貧しさが、心をじわじわと蝕んでいく。
このままではダメだ。何か行動を起こさなければ。
そう思う一方で、何から手をつければいいのか分からなかった。問題が多すぎて、どこから手を付ければいいのか見当もつかない。巨大な負債を前に、ただ立ち尽くすような無力感。俺は無気力なまま、時間だけを浪費していた。
そんなある朝のことだ。
いつものように殺風景な食堂に家族が集まったが、一つだけ空席があった。妹のリリアナがいない。
「リリアナはどうしたんだ」
父が母に尋ねると、母は心配そうな顔で答えた。
「昨夜から少し咳をしていて。今朝は熱があるようなので、部屋で休ませています」
その言葉が終わらないうちに、侍女が慌てた様子で食堂に駆け込んできた。その顔は真っ青だった。
「奥様、旦那様! リリアナ様の様子がおかしいのです! 息が、とても苦しそうで……」
食堂の空気が一瞬で凍り付く。
母が悲鳴のような声を上げて立ち上がり、俺たちもそれに続いた。
リリアナの部屋に駆け込むと、そこにはベッドの上で小さく体を丸め、苦しげに喘ぐ妹の姿があった。
「ゼェ……ヒュー……」
喉から漏れる音は、空気がうまく肺に届いていないことを示していた。額には脂汗が浮かび、頬は不健康に赤く染まっている。
「リリアナ! しっかりしなさい!」
母が必死に呼びかけるが、リリアナの目は虚ろで、焦点が合っていない。
父はすぐに領内の薬草師を呼びにやったが、この世界に現代のような専門医はいない。薬草師ができることなど、たかが知れている。
俺はリリアナの側に膝をつき、その様子を観察した。高い熱、激しい咳、そして呼吸困難。症状から察するに、おそらく肺炎だろう。栄養状態の悪い子供がかかれば、命に関わる病気だ。
前世の日本であれば。
病院に連れて行けば、すぐに診断が下る。抗生物質を投与すれば、数日で回復に向かうはずだ。助かるのが当たり前の、ごくありふれた病気。
だが、ここは違う。
ここには病院も、抗生物質もない。
やがて到着した薬草師は、リリアナを診察した後、いくつか薬草を煎じた苦い汁を飲ませた。だがそれは気休めにしかならない。症状は一向に改善せず、むしろ悪化していくように見えた。
「神よ……どうかこの子をお救いください……」
母はベッドの傍らで祈り、父は固く拳を握りしめて窓の外を睨んでいる。兄たちも、いつもの意地の悪さは消え失せ、ただ青い顔で立ち尽くすだけだ。
誰もが、無力だった。
神に祈ることしかできない。運命に身を委ねるしか、術がないのだ。
俺も、その一人だった。
知識はある。原因も、治療法も、頭の中にはっきりと存在している。ペニシリンがあれば。点滴で栄養補給ができれば。この小さな命は、たやすく救えるのに。
その知識が、この世界では何の役にも立たないという事実が、俺の心を締め付けた。
前世で当たり前のように享受していた医療技術が、どれほど尊いものだったか。失って初めて、その価値を痛感する。
トイレが汚いとか、飯がまずいとか、そんな不満は贅沢な悩みだった。
今、目の前で起きていることこそが、この世界の本当の理不尽だ。
助かるはずの命が、ただ「この時代に生まれた」というだけで、あっけなく失われようとしている。
そんなことが、あってたまるか。
俺はリリアナの小さな手を握った。熱く、か細い手だった。この手が、冷たくなっていくのを黙って見ていることなど、絶対にできるはずがない。
スローライフ? 自分の快適な暮らし?
ふざけるな。
大切な家族一人守れない世界で、自分だけが快適に生きて何の意味がある。
俺の心の中で、何かが音を立てて燃え上がった。
絶望や無気力といった、冷たい感情が焼き尽くされていく。代わりに宿ったのは、燃えるような怒りと、鋼のような決意だった。
「もう誰も失ってたまるか」
俺は立ち上がった。
そして、部屋にいる全員に聞こえるように、はっきりとした声で言った。
「俺が、リリアナを助ける」
家族全員の視線が、俺に突き刺さる。驚き、困惑、そして子供の戯言だと見なすような憐れみの色。
だが、今の俺にはどうでもよかった。
「母上、すぐに厨房から綺麗な布と、沸かしたお湯を持ってきてください。塩もひとつまみ。それと、部屋の窓を開けて空気を入れ替えます」
「リオ? あなた、何を……」
「いいから早く!」
俺の気迫に押されたのか、母は戸惑いながらも侍女に指示を出す。
俺は薬草師が置いていった水差しを手に取り、中身を床にぶちまけた。そして、侍女が持ってきた清潔な水で満たし、リリアナの枕元に置く。
「病人の周りを不潔にしてどうする。感染症の基本だ」
前世の知識が、断片的に蘇る。
まずは対症療法だ。脱水症状を防ぐための経口補水液。体を清潔に保ち、体力を消耗させないこと。
できることは限られている。だが、何もしないよりは百万倍マシだ。
俺は濡らした布で、リリアナの汗を優しく拭ってやる。
「大丈夫だ、リリアナ。兄ちゃんが、絶対に助けてやるからな」
それは自分に言い聞かせるための、誓いの言葉だった。
この不条理な世界で生き抜く。そして、大切な家族を守り抜く。
そのためなら、俺は持てる知識の全てを使い、この世界そのものを変えてみせる。
リオ・アシュフォードの体を得て、ただ絶望していた俺の魂は、この瞬間、本当の意味でこの世界に生まれ落ちた。
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