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第5話:泥まみれの貴公子
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翌朝、俺は父から与えられた実験農地へと向かっていた。
案内されたのは、領地の西の端に位置する小さな土地だった。そこは長年耕作放棄されていたらしく、雑草が人の背丈ほどに伸び放題になっている。地面には大小の石が転がり、およそ作物を育てるには最悪の環境と言えた。
父は、俺を試しているのだろう。
口先だけの計画ではないのか。本当に泥にまみれる覚悟があるのか。この荒れ地は、俺の本気度を測るための試金石なのだ。
望むところだ。
俺は上着を脱ぎ、シャツの袖を力強くまくり上げた。
昼前になると、父の命令で集められたという農夫たちが、ぞろぞろとやってきた。皆、長年の労働で日に焼け、節くれだった手をしている。その中でひときわ体格が良く、頑固そうな顔つきの老人が、腕を組んで俺の前に立った。
「わしはゴードン。ここの農夫たちのまとめ役だ。坊っちゃんが、わしらに何か用だそうだな」
その声には、あからさまな侮りと警戒の色が滲んでいた。
「集まってくれて感謝する、ゴードン殿。そして皆さん」
俺は用意していた羊皮紙を広げ、三圃式農業や緑肥、そして新しい犂について熱弁を振るった。どうすれば土地が甦るのか。どうすれば収穫が増えるのか。理路整然と、分かりやすい言葉を選んで説明する。
しかし、彼らの反応は冷ややかだった。
「畑を三つに分けるだと? 馬鹿馬鹿しい。使える土地は広い方がいいに決まってる」
「草を土に鋤き込むなんざ、聞いたこともねえ。雑草の種をわざわざ畑に蒔くようなもんだ」
「そもそも、神のお告げだなんて話、誰が信じるものか。坊っちゃんの寝言に付き合ってる暇はねえんだ」
口々に上がる不満の声。それは予想通りの反応だった。何十年、いや何百年と続いてきたやり方だ。それが彼らの常識であり、生活の根幹を成している。十歳の子供が考えた突飛な計画など、受け入れられるはずもなかった。
ゴードンは、俺が最後に広げた改良犂の設計図を鼻で笑った。
「鉄の犂ねえ。そんなもん、すぐに土の中で錆びちまう。第一、そんな奇妙な形にしたところで、何が変わるってんだ。先祖代々受け継いできたやり方が、一番確かなんだよ」
彼の言葉に、他の農夫たちも深く頷く。完全に、議論の余地なしという雰囲気だった。
命令で従わせることもできるだろう。だが、それでは意味がない。彼らの経験と知恵が、この計画には不可欠なのだ。
言葉だけでは、この分厚い壁は崩せない。
俺は静かに羊皮紙を畳むと、おもむろに足元の石を拾い上げた。そして、畑の隅にある岩場まで運び、放り投げる。
「な、何をしてるんだ、坊っちゃん」
戸惑うゴードンたちを尻目に、俺は黙々と石拾いを再開した。
一つ、また一つ。
畑を耕す前の、最も地味で、最も過酷な作業だ。貴族の、それもまだ子供のリオがやることではない。
農夫たちは、呆気に取られて俺の姿を眺めていた。
「おい、どうなってんだ」
「さあな。すぐに飽きて泣き出すに決まってる」
彼らの囁き声が聞こえてきたが、俺は気にも留めなかった。ただひたすらに、石を拾い、運び、捨てる。
前世の記憶があるとはいえ、この体は十歳の子供のものだ。すぐに息が上がり、心臓が激しく脈打つ。腕は鉛のように重くなり、腰は砕けそうに痛む。手のひらの皮はあっという間に擦り剥け、じくじくと血が滲んだ。
それでも、俺は手を止めなかった。
汗が目に入り、泥が頬を汚す。その姿は、貴公子などという言葉とは程遠い、ただの泥まみれの子供だった。
一日中作業を続け、日が傾き始めた頃。俺はヘトヘトになってその場に座り込んだ。
農夫たちは、とっくに呆れて帰ったと思っていた。だが、ゴードンだけは少し離れた木陰から、まだ俺のことを見ていた。
翌日も、俺は同じように石を拾い続けた。
三日目には、数人の農夫たちが遠巻きに様子を見に来ていた。彼らの視線から、嘲笑の色は消えていた。代わりに宿っていたのは、困惑と、ほんのわずかな興味。
そして俺は、作業の合間を見つけて、もう一つの作業を始めていた。持参した木材と小刀を使い、何かを作り始めたのだ。
改良犂の、精巧なミニチュア模型だった。
撥土板の絶妙なカーブ。刃の角度。全体のバランス。設計図に描かれたそれを、寸分の違いなく立体として再現していく。その手際の良さと正確さに、農夫たちの中から、特に手仕事に自信のある者がごくりと喉を鳴らすのが分かった。
そして、五日が過ぎた。
俺がいつものように石を運び終え、ぜえぜえと息を切らしていると、ゴードンが他の農夫たちを連れて、ついに俺の前に歩み寄ってきた。
「坊っちゃん」
ゴードンの声には、もう侮りの響きはなかった。
「あんたが本気だってことは、もう分かった。だが、それでもわしらは、あんたのやり方が正しいとは思えん」
「分かっている」
俺は泥だらけの手の甲で汗を拭い、彼らをまっすぐに見据えた。
「俺のやり方が正しいかどうかは、やってみなければ分からない。あんたたちの言う通り、大失敗に終わるかもしれない」
俺は一度言葉を切り、そして決定的なカードを切った。
「だが、もし成功したら。もし、去年の収穫の倍の麦がこの畑から獲れたなら」
俺はゆっくりと、はっきりと宣言した。
「その増えた分の収穫は、すべて、この計画に協力してくれたあんたたちにやると約束する」
その場が、水を打ったように静まり返る。
農夫たちは、自分の耳を疑うように顔を見合わせた。彼らの常識では、ありえない提案だった。収穫物は領主のもの。それがこの世界の絶対のルールだ。
「失敗すれば、それはすべて俺の責任だ。誰にも文句は言わせん。だが成功すれば、それはあんたたちの儲けになる。どうだ。この話、乗ってみる気はないか?」
ゴードンは、俺の泥と豆で潰れた手を見た。そして、疲れ切っているはずなのに、爛々と輝く俺の目を見た。
彼は長い間黙り込んでいたが、やがて天を仰ぎ、大きなため息をついた。
そして、渋々といった表情で、だが確かな声で言った。
「……分かったよ、坊っちゃん。そこまで言うなら、このじじいも最後まで付き合ってやらあ」
彼の言葉が、合図だった。
「ゴードンさんが言うなら」
「まあ、損する話じゃねえしな」
「坊っちゃんのその変な犂、ちょっと作ってみたくなった」
一人、また一人と、農夫たちが笑いながら協力を申し出てくる。それは諦めと、好奇心と、そしてほんの少しの期待が混じった、不思議な一体感だった。
ついに、この領地で最初の革命の火が灯ったのだ。
俺は泥だらけの顔のまま、こみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。
机上の計画が、血の通った現実として動き出す。その確かな手応えが、体の痛みなど忘れさせるほど、心地よかった。
案内されたのは、領地の西の端に位置する小さな土地だった。そこは長年耕作放棄されていたらしく、雑草が人の背丈ほどに伸び放題になっている。地面には大小の石が転がり、およそ作物を育てるには最悪の環境と言えた。
父は、俺を試しているのだろう。
口先だけの計画ではないのか。本当に泥にまみれる覚悟があるのか。この荒れ地は、俺の本気度を測るための試金石なのだ。
望むところだ。
俺は上着を脱ぎ、シャツの袖を力強くまくり上げた。
昼前になると、父の命令で集められたという農夫たちが、ぞろぞろとやってきた。皆、長年の労働で日に焼け、節くれだった手をしている。その中でひときわ体格が良く、頑固そうな顔つきの老人が、腕を組んで俺の前に立った。
「わしはゴードン。ここの農夫たちのまとめ役だ。坊っちゃんが、わしらに何か用だそうだな」
その声には、あからさまな侮りと警戒の色が滲んでいた。
「集まってくれて感謝する、ゴードン殿。そして皆さん」
俺は用意していた羊皮紙を広げ、三圃式農業や緑肥、そして新しい犂について熱弁を振るった。どうすれば土地が甦るのか。どうすれば収穫が増えるのか。理路整然と、分かりやすい言葉を選んで説明する。
しかし、彼らの反応は冷ややかだった。
「畑を三つに分けるだと? 馬鹿馬鹿しい。使える土地は広い方がいいに決まってる」
「草を土に鋤き込むなんざ、聞いたこともねえ。雑草の種をわざわざ畑に蒔くようなもんだ」
「そもそも、神のお告げだなんて話、誰が信じるものか。坊っちゃんの寝言に付き合ってる暇はねえんだ」
口々に上がる不満の声。それは予想通りの反応だった。何十年、いや何百年と続いてきたやり方だ。それが彼らの常識であり、生活の根幹を成している。十歳の子供が考えた突飛な計画など、受け入れられるはずもなかった。
ゴードンは、俺が最後に広げた改良犂の設計図を鼻で笑った。
「鉄の犂ねえ。そんなもん、すぐに土の中で錆びちまう。第一、そんな奇妙な形にしたところで、何が変わるってんだ。先祖代々受け継いできたやり方が、一番確かなんだよ」
彼の言葉に、他の農夫たちも深く頷く。完全に、議論の余地なしという雰囲気だった。
命令で従わせることもできるだろう。だが、それでは意味がない。彼らの経験と知恵が、この計画には不可欠なのだ。
言葉だけでは、この分厚い壁は崩せない。
俺は静かに羊皮紙を畳むと、おもむろに足元の石を拾い上げた。そして、畑の隅にある岩場まで運び、放り投げる。
「な、何をしてるんだ、坊っちゃん」
戸惑うゴードンたちを尻目に、俺は黙々と石拾いを再開した。
一つ、また一つ。
畑を耕す前の、最も地味で、最も過酷な作業だ。貴族の、それもまだ子供のリオがやることではない。
農夫たちは、呆気に取られて俺の姿を眺めていた。
「おい、どうなってんだ」
「さあな。すぐに飽きて泣き出すに決まってる」
彼らの囁き声が聞こえてきたが、俺は気にも留めなかった。ただひたすらに、石を拾い、運び、捨てる。
前世の記憶があるとはいえ、この体は十歳の子供のものだ。すぐに息が上がり、心臓が激しく脈打つ。腕は鉛のように重くなり、腰は砕けそうに痛む。手のひらの皮はあっという間に擦り剥け、じくじくと血が滲んだ。
それでも、俺は手を止めなかった。
汗が目に入り、泥が頬を汚す。その姿は、貴公子などという言葉とは程遠い、ただの泥まみれの子供だった。
一日中作業を続け、日が傾き始めた頃。俺はヘトヘトになってその場に座り込んだ。
農夫たちは、とっくに呆れて帰ったと思っていた。だが、ゴードンだけは少し離れた木陰から、まだ俺のことを見ていた。
翌日も、俺は同じように石を拾い続けた。
三日目には、数人の農夫たちが遠巻きに様子を見に来ていた。彼らの視線から、嘲笑の色は消えていた。代わりに宿っていたのは、困惑と、ほんのわずかな興味。
そして俺は、作業の合間を見つけて、もう一つの作業を始めていた。持参した木材と小刀を使い、何かを作り始めたのだ。
改良犂の、精巧なミニチュア模型だった。
撥土板の絶妙なカーブ。刃の角度。全体のバランス。設計図に描かれたそれを、寸分の違いなく立体として再現していく。その手際の良さと正確さに、農夫たちの中から、特に手仕事に自信のある者がごくりと喉を鳴らすのが分かった。
そして、五日が過ぎた。
俺がいつものように石を運び終え、ぜえぜえと息を切らしていると、ゴードンが他の農夫たちを連れて、ついに俺の前に歩み寄ってきた。
「坊っちゃん」
ゴードンの声には、もう侮りの響きはなかった。
「あんたが本気だってことは、もう分かった。だが、それでもわしらは、あんたのやり方が正しいとは思えん」
「分かっている」
俺は泥だらけの手の甲で汗を拭い、彼らをまっすぐに見据えた。
「俺のやり方が正しいかどうかは、やってみなければ分からない。あんたたちの言う通り、大失敗に終わるかもしれない」
俺は一度言葉を切り、そして決定的なカードを切った。
「だが、もし成功したら。もし、去年の収穫の倍の麦がこの畑から獲れたなら」
俺はゆっくりと、はっきりと宣言した。
「その増えた分の収穫は、すべて、この計画に協力してくれたあんたたちにやると約束する」
その場が、水を打ったように静まり返る。
農夫たちは、自分の耳を疑うように顔を見合わせた。彼らの常識では、ありえない提案だった。収穫物は領主のもの。それがこの世界の絶対のルールだ。
「失敗すれば、それはすべて俺の責任だ。誰にも文句は言わせん。だが成功すれば、それはあんたたちの儲けになる。どうだ。この話、乗ってみる気はないか?」
ゴードンは、俺の泥と豆で潰れた手を見た。そして、疲れ切っているはずなのに、爛々と輝く俺の目を見た。
彼は長い間黙り込んでいたが、やがて天を仰ぎ、大きなため息をついた。
そして、渋々といった表情で、だが確かな声で言った。
「……分かったよ、坊っちゃん。そこまで言うなら、このじじいも最後まで付き合ってやらあ」
彼の言葉が、合図だった。
「ゴードンさんが言うなら」
「まあ、損する話じゃねえしな」
「坊っちゃんのその変な犂、ちょっと作ってみたくなった」
一人、また一人と、農夫たちが笑いながら協力を申し出てくる。それは諦めと、好奇心と、そしてほんの少しの期待が混じった、不思議な一体感だった。
ついに、この領地で最初の革命の火が灯ったのだ。
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