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第31話:炎と煙の戦場
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精鋭騎士団の壊滅は、グライフ軍全体に大きな動揺を与えていた。
後方に控えていた千人以上の歩兵たちは、目の前で起きた信じがたい光景に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。彼らのほとんどは、金で雇われたならず者か、無理やり連れてこられた農民兵だ。士気など、元から高いはずもなかった。
「な、何が起こったんだ……」
「鉄の爪の旦那方が、一瞬で……」
「化け物だ、あいつらは化け物だ!」
恐怖と混乱が、伝染病のように広がっていく。
グライフ子爵は、馬上で顔面を蒼白にさせながら、必死に叫んでいた。
「うろたえるな! 立て直せ! 歩兵部隊、前へ! 数で押し潰してしまえ!」
彼の命令に、督戦隊に促された歩兵たちが、おそるおそる前進を開始した。だが、その足取りは重く、隊列は乱れ、もはや軍隊としての統制は失われかけていた。
俺は、その好機を逃さなかった。
「投石器、目標、敵陣中央! まずは『煙』からだ! 放て!」
俺の号令と共に、本陣に設置された数台の投石器が、不気味な軋み音を立てて大きくしなった。そして、放たれた数個の素焼きの壺が、高い放物線を描いて、混乱するグライフ軍歩兵部隊のど真ん中へと飛んでいく。
壺は、地面に叩きつけられてけたたましい音と共に砕け散った。
次の瞬間。
ボフッという鈍い音と共に、大量の、濃密な黒い煙が、ものすごい勢いで発生した。湿らせた藁と硫黄が作り出す、目に染み、呼吸を困難にさせる有毒な煙だ。
「げほっ、げほっ! な、なんだこの煙は!?」
「前が見えん!」
「目が、目が痛え!」
敵陣の中央は、瞬く間に視界ゼロの暗黒地帯と化した。兵士たちは咳き込み、涙を流し、方向感覚を完全に失って右往左往するしかない。指揮官がいくら叫んでも、その声は兵士たちの悲鳴と混乱にかき消され、全く届かない。
指揮系統は、完全に分断された。
「シルフィ、頼む!」
俺が隣にいる彼女に合図を送ると、シルフィはこくりと頷いた。彼女は目を閉じ、集中する。
「風よ……」
彼女の小さな呟きと共に、戦場にありえない風が吹いた。
それは、煙幕の中心から外側へ向かって、渦を巻くように広がる風だった。その風に乗り、黒い煙はまるで意思を持った生き物のように、グライフ軍全体を包み込むように広がっていった。
「うわああ! 煙がこっちに来るぞ!」
「逃げろ!」
煙に巻かれた兵士たちは、大パニックに陥った。敵がどこにいるのか、味方がどこにいるのかも分からない。ただ、この息苦しい暗闇から逃れようと、我先に逃げ惑うだけだ。
「よし……」
俺は、敵陣の混乱が頂点に達したのを見計らい、最後の、そして最も非情な命令を下した。
「投石器、次弾装填! 今度は『炎』だ! 煙幕の中心に、全て叩き込め! 放て!」
再び、投石器が唸りを上げる。
今度の壺には、黒色火薬の元となる、硝石を混ぜ込んだ可燃性の油脂が詰め込まれている。
壺は、黒い煙の中に吸い込まれるように着弾し、砕けた。
そして。
戦場に、地獄が出現した。
ゴウッという爆音と共に、黒煙の中から、巨大な火柱が何本も立ち上った。硝石によって酸素を供給された油脂は、爆発的な勢いで燃え広がり、周囲の全てを飲み込んでいく。
それは、ただの炎ではなかった。水をかけても消えない、粘着性の炎だ。鎧に付けば、皮膚まで焼き尽くすまで燃え続ける。
「ぎゃあああああ!」
「熱い! 助けてくれ!」
「悪魔だ! こいつらは悪魔の軍勢だ!」
煙の中で視界を奪われ、逃げ惑っていた兵士たちが、今度は灼熱の炎に巻かれる。悲鳴と絶叫が、阿鼻叫喚の地獄絵図を描き出した。
もはや、それは戦争ではなかった。一方的な、蹂躙だった。
戦意など、かけらも残っているはずがない。
生き残ったグライフ軍の兵士たちは、武器を放り出し、味方を突き飛ばし、狂ったように戦場から逃げ出していく。傭兵も、農民兵も、関係ない。ただ、この地獄から一刻も早く離れたいという、生物としての本能だけが、彼らを支配していた。
グライフ子爵も、例外ではなかった。
彼は、目の前で繰り広げられる悪夢のような光景に、腰を抜かさんばかりに震え上がっていた。
「ひっ……! ば、化け物め……」
彼は、供回りの数騎だけを連れて、誰よりも早く戦場に背を向け、逃げ出していった。
総大将の逃亡。それは、軍隊の完全な崩壊を意味していた。
アシュフォード軍の兵士たちは、その光景を、ただ呆然と眺めていた。
自分たちの目の前で、四倍もの大軍が、ほとんど戦うことなく崩壊していく。
恐怖の対象だったはずの敵が、赤子のように逃げ惑っている。
彼らは、自分たちが成し遂げたことの重大さと、そしてその恐ろしさに、打ち震えていた。
「……リオ様」
バルガスが、掠れた声で俺に話しかけてきた。彼の顔は、蒼白だった。
「これが……あなた様の戦い方、なのですな」
「ああ」
俺は、燃え盛る敵陣から目を逸らさずに答えた。「これが、弱者が強者に勝つための、唯一の方法だ」
俺の隣で、シルフィが小さく肩を震わせていた。彼女は、自分の力が引き起こした惨状から、目を背けていた。
俺は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「すまない、シルフィ。君に酷い役目を負わせた」
「……ううん」
シルフィは、首を横に振った。「これで……みんなが、守られたんだよね……?」
「そうだ。君のおかげで、この戦いは終わった。俺たちの領地は、守られたんだ」
俺の言葉に、彼女は少しだけ安堵したような表情を浮かべた。
俺は、潰走していく敵軍を見つめる。
深追いはしない。ここで敵兵を無闇に殺しても、新たな恨みを生むだけだ。
目的は、達成された。
アシュフォード領は、最小限の損害で、完璧な勝利を収めたのだ。
だが、俺の心に、勝利の昂揚感はなかった。
あるのはただ、自らの手が作り出した地獄の光景と、戦争という行為の持つ、どうしようもない空虚さだけだった。
俺は、この日の光景を、生涯忘れることはないだろう。
技術の力は、人を豊かにもするが、同時に、これほどの地獄をも生み出せるのだという、厳然たる事実を。
俺は、その罪を、この両肩に背負って、これからも生きていかなければならない。
静かになった戦場に、遠くで逃げ惑う兵士たちの悲鳴と、炎が爆ぜる音だけが、いつまでも響き渡っていた。
後方に控えていた千人以上の歩兵たちは、目の前で起きた信じがたい光景に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。彼らのほとんどは、金で雇われたならず者か、無理やり連れてこられた農民兵だ。士気など、元から高いはずもなかった。
「な、何が起こったんだ……」
「鉄の爪の旦那方が、一瞬で……」
「化け物だ、あいつらは化け物だ!」
恐怖と混乱が、伝染病のように広がっていく。
グライフ子爵は、馬上で顔面を蒼白にさせながら、必死に叫んでいた。
「うろたえるな! 立て直せ! 歩兵部隊、前へ! 数で押し潰してしまえ!」
彼の命令に、督戦隊に促された歩兵たちが、おそるおそる前進を開始した。だが、その足取りは重く、隊列は乱れ、もはや軍隊としての統制は失われかけていた。
俺は、その好機を逃さなかった。
「投石器、目標、敵陣中央! まずは『煙』からだ! 放て!」
俺の号令と共に、本陣に設置された数台の投石器が、不気味な軋み音を立てて大きくしなった。そして、放たれた数個の素焼きの壺が、高い放物線を描いて、混乱するグライフ軍歩兵部隊のど真ん中へと飛んでいく。
壺は、地面に叩きつけられてけたたましい音と共に砕け散った。
次の瞬間。
ボフッという鈍い音と共に、大量の、濃密な黒い煙が、ものすごい勢いで発生した。湿らせた藁と硫黄が作り出す、目に染み、呼吸を困難にさせる有毒な煙だ。
「げほっ、げほっ! な、なんだこの煙は!?」
「前が見えん!」
「目が、目が痛え!」
敵陣の中央は、瞬く間に視界ゼロの暗黒地帯と化した。兵士たちは咳き込み、涙を流し、方向感覚を完全に失って右往左往するしかない。指揮官がいくら叫んでも、その声は兵士たちの悲鳴と混乱にかき消され、全く届かない。
指揮系統は、完全に分断された。
「シルフィ、頼む!」
俺が隣にいる彼女に合図を送ると、シルフィはこくりと頷いた。彼女は目を閉じ、集中する。
「風よ……」
彼女の小さな呟きと共に、戦場にありえない風が吹いた。
それは、煙幕の中心から外側へ向かって、渦を巻くように広がる風だった。その風に乗り、黒い煙はまるで意思を持った生き物のように、グライフ軍全体を包み込むように広がっていった。
「うわああ! 煙がこっちに来るぞ!」
「逃げろ!」
煙に巻かれた兵士たちは、大パニックに陥った。敵がどこにいるのか、味方がどこにいるのかも分からない。ただ、この息苦しい暗闇から逃れようと、我先に逃げ惑うだけだ。
「よし……」
俺は、敵陣の混乱が頂点に達したのを見計らい、最後の、そして最も非情な命令を下した。
「投石器、次弾装填! 今度は『炎』だ! 煙幕の中心に、全て叩き込め! 放て!」
再び、投石器が唸りを上げる。
今度の壺には、黒色火薬の元となる、硝石を混ぜ込んだ可燃性の油脂が詰め込まれている。
壺は、黒い煙の中に吸い込まれるように着弾し、砕けた。
そして。
戦場に、地獄が出現した。
ゴウッという爆音と共に、黒煙の中から、巨大な火柱が何本も立ち上った。硝石によって酸素を供給された油脂は、爆発的な勢いで燃え広がり、周囲の全てを飲み込んでいく。
それは、ただの炎ではなかった。水をかけても消えない、粘着性の炎だ。鎧に付けば、皮膚まで焼き尽くすまで燃え続ける。
「ぎゃあああああ!」
「熱い! 助けてくれ!」
「悪魔だ! こいつらは悪魔の軍勢だ!」
煙の中で視界を奪われ、逃げ惑っていた兵士たちが、今度は灼熱の炎に巻かれる。悲鳴と絶叫が、阿鼻叫喚の地獄絵図を描き出した。
もはや、それは戦争ではなかった。一方的な、蹂躙だった。
戦意など、かけらも残っているはずがない。
生き残ったグライフ軍の兵士たちは、武器を放り出し、味方を突き飛ばし、狂ったように戦場から逃げ出していく。傭兵も、農民兵も、関係ない。ただ、この地獄から一刻も早く離れたいという、生物としての本能だけが、彼らを支配していた。
グライフ子爵も、例外ではなかった。
彼は、目の前で繰り広げられる悪夢のような光景に、腰を抜かさんばかりに震え上がっていた。
「ひっ……! ば、化け物め……」
彼は、供回りの数騎だけを連れて、誰よりも早く戦場に背を向け、逃げ出していった。
総大将の逃亡。それは、軍隊の完全な崩壊を意味していた。
アシュフォード軍の兵士たちは、その光景を、ただ呆然と眺めていた。
自分たちの目の前で、四倍もの大軍が、ほとんど戦うことなく崩壊していく。
恐怖の対象だったはずの敵が、赤子のように逃げ惑っている。
彼らは、自分たちが成し遂げたことの重大さと、そしてその恐ろしさに、打ち震えていた。
「……リオ様」
バルガスが、掠れた声で俺に話しかけてきた。彼の顔は、蒼白だった。
「これが……あなた様の戦い方、なのですな」
「ああ」
俺は、燃え盛る敵陣から目を逸らさずに答えた。「これが、弱者が強者に勝つための、唯一の方法だ」
俺の隣で、シルフィが小さく肩を震わせていた。彼女は、自分の力が引き起こした惨状から、目を背けていた。
俺は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「すまない、シルフィ。君に酷い役目を負わせた」
「……ううん」
シルフィは、首を横に振った。「これで……みんなが、守られたんだよね……?」
「そうだ。君のおかげで、この戦いは終わった。俺たちの領地は、守られたんだ」
俺の言葉に、彼女は少しだけ安堵したような表情を浮かべた。
俺は、潰走していく敵軍を見つめる。
深追いはしない。ここで敵兵を無闇に殺しても、新たな恨みを生むだけだ。
目的は、達成された。
アシュフォード領は、最小限の損害で、完璧な勝利を収めたのだ。
だが、俺の心に、勝利の昂揚感はなかった。
あるのはただ、自らの手が作り出した地獄の光景と、戦争という行為の持つ、どうしようもない空虚さだけだった。
俺は、この日の光景を、生涯忘れることはないだろう。
技術の力は、人を豊かにもするが、同時に、これほどの地獄をも生み出せるのだという、厳然たる事実を。
俺は、その罪を、この両肩に背負って、これからも生きていかなければならない。
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