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30話 小話 広がる違和感
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朝のことを、ホルは何度も思い返していた。
洗面所から出てきた悠人は、いつも通りの顔をしていた。
声も、態度も、変わらない。
なのに――。
(……今日、ちょっとおかしかった)
それが、最初に浮かんだ感想だった。
どこがおかしかったのか、と聞かれたら、答えられない。
視線を逸らした理由も、言葉を短く切った理由も、全部「あり得る範囲」の中に収まっている。
寝不足だったのかもしれない。
仕事のことを考えていただけかもしれない。
それなのに、胸の奥がざわついた。
(距離……詰めすぎた、かな)
そう思って、すぐに否定する。
いつもと同じだ。
朝起こして、声をかけて、少し近づいただけ。
特別なことは、何もしていない。
(……じゃあ、なんで)
理由が分からない。
分からないままなのが、少し怖かった。
ホルは一度、ゲーム端末を手に取ってから、電源を入れずに膝に置いた。
「……その前に」
小さく呟いて、立ち上がる。
気分を変えたい、というより――このまま座っていると、考えすぎてしまいそうだった。
クローゼットを開けると、服が並んでいる。
いつも選ぶのは、落ち着いた色で、動きやすいもの。
悠人の前でも“普段通り”でいられる服。
……なのに。
指先が、奥に掛けてあった一着に触れた。
淡い水色のワンピース。
肩が少しだけ開いていて、レースがあしらわれた、柔らかい生地。
(……これ)
鏡の前でそっと合わせてみる。
一瞬。
「……ふふ」
理由もなく、笑ってしまった。
ーーーー
ーーーー
思ったより、似合っている。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
(なに、これ)
可愛い、なんて。
そう思うつもりはなかったのに。
「……変だな」
そう言いながらも、口元の
笑みは消えなかった。
(どうして、これを選ぼうとしてるんだろ)
理由は、分かっている気がした。
だからこそ、はっきり考えないように、視線を逸らす。
「……今日は、やめとこ」
名残惜しそうにワンピースを戻し、
結局、いつもより少しだけ明るい色のトップスを選んだ。
“いつも通り”から、ほんの一歩だけずらした服。
着替え終えて鏡を見る。
そこに映る自分は、やっぱりいつもと大きくは変わらない。
それなのに、胸の奥に残るのは、選ばなかった服の感触だった。
(……気にしすぎだよね)
自分に言い聞かせるように息を吐き、リビングに戻る。
ホルはソファに座り、膝にゲーム端末を乗せる。
画面には、昨日の続きのダンジョン。
指は自然に動いているのに、集中できていない。
「……あ」
キャラクターが被弾して、体力ゲージが大きく減る。
慌てて回復を入れながら、ため息をついた。
(だめだ、今日は……)
ゲームは楽しい。
ちゃんと楽しいはずなのに、どこか上の空だ。
頭の中に浮かぶのは、悠人の横顔ばかりだった。
視線を逸らした瞬間。
言葉を選ぶような間。
「大丈夫」と言った声の、わずかな硬さ。
(……嫌だったのかな)
胸が、きゅっと縮む。
自分が近づいたせいで、困らせたのかもしれない。
無自覚に踏み込みすぎて、負担をかけたのかもしれない。
そう考えると、急に不安が膨らんでくる。
(誰かに……聞いた方がいいのかな)
ふと、昔のことを思い出した。
悠人と出会う前。
まだ一人で過ごしていた頃。
悩みがあると、相談していた相手。
赤い髪の、少し口が悪くて、でも面倒見のいい彼女。
はっきりした言葉で、迷いを切ってくれた友人。
(……でも)
指が止まる。
相談、していいんだろうか。
今のこの気持ちを、誰かに話してしまっていいのか。
悠人のことを、勝手に不安に思っているだけかもしれないのに。
(……だめだ)
なぜか、そう思った。
誰かに話したら、壊れてしまう気がした。
今の、この関係の形が。
ホルはゲーム端末を一度閉じて、膝の上に置いた。
リビングは静かだ。
悠人のいない時間。
当たり前だったはずの時間が、今日はやけに広く感じる。
(私は……)
胸に手を当てる。
私は、悠人と暮らしている。
一緒に朝を迎えて、夜を過ごしている。
それは、確かな事実だ。
(今、幸せだよ)
それは、嘘じゃない。
本当に、幸せだと思っている。
誰かと一緒に住むこと。
毎日顔を合わせること。
何気ない会話を交わすこと。
それ全部が、温かい。
でも。
(……悠人は、どうなんだろ)
その問いが、頭から離れなかった。
悠人は、好きだと言ってくれた。
あれは、夢の中だったけれど。
でも、あの言葉は、確かに嬉しかった。
胸の奥に、ずっと残っている。
(でも……)
夢の中で言ってくれた、それきりだ。
現実では、一度も聞いていない。
否定も、肯定もされていない。
(今も……私のこと、好きなのかな)
小さな不安だった。
今すぐどうこうなるような、大きなものじゃない。
でも。
小さなヒビが、じわじわと広がるみたいに。
気づいたら、胸いっぱいに広がっていた。
(嫌われた、わけじゃないよね)
そう思いながらも、確信が持てない。
悠人は優しい。
守るような距離の取り方をする人だ。
だからこそ。
本当の気持ちが、分かりにくい。
(……私、焦ってるのかな)
幸せだから。
失うのが、怖い。
今のこの生活が、崩れてしまう想像をしただけで、胸が痛む。
ホルは、そっとソファに背を預けた。
部屋に、時計の音だけが響く。
今日も、悠人は帰ってくる。
きっと、いつも通りの顔で。
それなのに。
(……ちゃんと、話した方がいいのかな)
でも、勇気が出ない。
何を聞けばいいのかも、分からない。
好きだと、言ってほしい。
でも、言わせたいわけじゃない。
矛盾した気持ちが、胸の中で絡まる。
(……分からない)
ホルは、静かに目を閉じた。
ゲームも、部屋も、生活も。
全部、ちゃんと楽しい。
なのに。
心の奥に、小さな影が落ちている。
それが、今日一日、消えることはなかった。
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