現実とサキュバスのあいだで ――夢で告白した相手が、同居を始めた話

そう

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29話 触れない朝

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朝の光が、いつもよりまぶしく感じた。

洗面台で顔を洗い、タオルで水気を拭き取る。
鏡に映る自分は、少しだけ落ち着きがない。

(……気のせいだ)

そう思うことにして、洗面所を出た。

寝室の扉を抜け、リビングへ向かうと――
ダイニングに、ホルがいた。

テーブルのそばで、ゆっくりと髪を耳にかけながら、こちらを振り返る。

「おはよう、悠人」

笑顔は、いつもどおり。
声も、変わらない。

「……おはよう」

視線が一瞬だけ合って、
すぐに、逸らしてしまった。

(……何してんだ、俺)

いつもなら何でもない距離。
けれど今は――近い。

動きやすそうな薄手のパジャマ。
肌が見えるわけじゃない。
なのに、妙に意識してしまう。

“好き”だと認めた途端、
こんなにもまともに見られなくなるなんて。

「悠人?」

覗き込むような視線が、
さらに意識を刺激してくる。

「……どうしたの?」

声に困惑と少しの心配が滲む。

「なんでもない。ただ……ちょっと、暑いだけだ」

自分でも苦しい言い訳だとわかっている。
だがそれ以外に言える言葉が見つからなかった。

「そっか」

ホルは頷く――
けれど、その目は納得していない。

そして、

じっと、こちらを見つめてきた。

逃げたはずの視線を、
追いかけてくるみたいに。

それなのに、
胸の奥が、妙にざわついた。

(……やめろ)

心臓が跳ねた。
呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。

その変化に気づいたのか、
ホルは一瞬だけ目を瞬かせて――
椅子から立ち上がり、一歩、こちらに近づいた。

距離は、ほんのわずか。
触れない程度。
けれど、空気が変わるには十分すぎる近さだった。

悠人は思わず息を詰める。

ホルは見上げる形になり、
少しだけ表情を緩めて、声を落とす。

「……大丈夫?」



囁くようなその声が、
耳に直接触れた気がして、背筋がぞくりとした。

――優しさで追い詰めてくるな。

「……大丈夫だ」

答えながら、
悠人は視線をわずかに逸らす。

ホルはそれ以上踏み込まない。
けれど、その距離のまま、
しばらく動かなかった。

ホルは追及しない。
ただ、こちらの反応を確かめるように
視線だけを残したまま、席に座り直した。

朝食の時間。

パンを口に運んでも、味がしない。
喉を通っているのに実感がない。

ホルはそんな悠人を時々見ていた。
気づかれないように――
でも、気づいてほしそうに。

(線を引いているつもりで……
 引けなくなっているのは俺の方か)

ぎこちない沈黙が続く。

そして出勤の時間が来た。

玄関で靴を履く指先に、微かな震え。
ホルがすぐ後ろで見守っている気配。

「いってらっしゃい」

変わらない日常の言葉なのに、
なぜか、胸に刺さる。

「行ってくる」

扉を閉める瞬間――
心のどこかで、思ってしまった。

(……夢と同じだ)

(どうして、もっと素直にできないんだ)

アスファルトに落ちる足音は、
いつものリズムのはずなのに。

胸の奥だけが、
昨日までとはまるで違う速さで鳴っていた。

――昨日までの距離は、
もう戻れないところにある。
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