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31話 まだ、何も起きていない
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朝は、何も壊れていないように見えた。
ただ、壊さないための距離だけが、少し難しくなっていた。
家を出て、いつもと同じ道を歩き、
いつもと同じ時間の電車に乗る。
改札を抜ける流れも、ホームに立つ位置も、
身体が覚えてしまっている。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
車内には、眠そうな顔や無表情な背中が並んでいる。
悠人は吊り革につかまりながら、
ぼんやりと窓に映る自分の姿を見ていた。
少し眠そうな顔。
目の下に、うっすら残る影。
特別な異変はない。
寝不足の朝だと言われれば、それで通ってしまう程度だ。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
理由のない不安、というほど曖昧なものではない。
けれど、はっきりと言葉にしてしまうには、まだ生々しすぎて、
無意識のうちに、考えないようにしている自分がいた。
電車が揺れるたび、
現実に引き戻されそうになるのに、思考だけが置いていかれる。
(……何を気にしてるんだ)
心の中で、そう呟く。
周囲には人がいるのに、その言葉だけが、やけに大きく響いた。
理由は、分かっているはずだった。
分かっているからこそ、考えないようにしている。
つり革を握る指に、少しだけ力が入る。
気づけば、ホルのことを思い浮かべていた。
今までも、何度も見てきた姿だ。
朝の寝起きの顔も、リラックスした横顔も、
何気ない仕草のひとつひとつも。
整った顔立ちで、目を引くところは多い。
街ですれ違えば、思わず視線を向けてしまうだろう。
綺麗だ、と思ったことは、正直にある。
けれどそれは、あくまで外見の話だった。
「綺麗だな」と思うことと、
「踏み込んでいい」と思うことは、
自分の中では、はっきりと別のものだった。
街ですれ違えば、少し目を留める程度の――
それ以上でも、それ以下でもない。
そういう種類の感覚だと、ずっと思ってきた。
「可愛い」とか、「好き」とか。
そういう言葉を使うには、どこか無責任な気がして、
きちんと線を引いてきたつもりだった。
一緒に暮らすようになってからも、意識しないようにしていた。
距離が近いからこそ、余計な感情を持ち込まないように。
それが、彼女にとっても、自分にとっても安全だと思っていた。
目指していたのは、恋人でも、特別な誰かでもない。
家族みたいな距離感。
そばにいて当たり前で、安心できる存在。
一緒にいても、気を張らなくていい。
沈黙が続いても、不安にならない。
必要以上に、期待もしないし、期待させもしない。
それが一番、穏やかで、壊れないと思っていたから。
そう思っていれば、
踏み込みすぎたとしても、言い訳ができた。
越えてはいけない線が、最初から存在しているような顔ができた。
けれど――。
ふと、ある日の光景がよぎる。
ーーーー
ーーーー
いつのことだったのか、はっきりとは思い出せない。
特別な出来事があったわけでもない。
ただ、何気ない一瞬だったはずだ。
なのに、その場面だけが、妙に鮮明に残っている。
なぜ、その光景だったのかは分からない。
思い出そうとすると、細部は曖昧なのに、
胸の奥に残る感覚だけが、消えずに居座っている。
彼女を意識してしまった時点で、
もう“家族みたいな存在”ではいられなかった。
その事実が、じわじわと胸に広がる。
朝、声をかけられた時。
距離を詰められた時。
視線が合った、ほんの一瞬。
胸が跳ねた。
呼吸が、ほんの少しだけ乱れた。
理由を考えるよりも先に、
体が反応してしまったことが、何より厄介だった。
意識するな、と自分に言い聞かせる前に、
もう心臓は答えを出してしまっている。
(……違う)
今までと、同じではない。
同じ時間、同じ距離、同じ仕草。
それなのに、同じように受け取れなくなっている。
夢の中で言えた言葉は、
現実では、まだ一度も言えていない。
「好きだ」
あの夜、夢の中で自然に口にできた言葉。
迷いも、躊躇もなく、当たり前のように。
言葉にした瞬間、何も壊れなかったどころか、
不思議なほど、しっくりきてしまった。
まるで、ずっと胸の奥にあったものに、
ようやく名前を与えたような感覚だった。
目が覚めてからも、その感覚だけが残っている。
――夢だからだ。
――夢の中の話だ。
何度も、そう言い聞かせた。
夢なら、責任を負わなくていい。
夢なら、現実に持ち込まなくて済む。
けれど、現実の朝で。
現実の彼女を前にして。
同じ距離、同じ仕草なのに、
もう“何も感じないふり”はできなかった。
守っているつもりで、
実際には、逃げているだけなのかもしれない。
その考えが、胸の奥に静かに沈んでいく。
関係を壊したくない。
だから、踏み込まない。
そう言い訳をしてきた。
けれど本当は――
踏み込んでしまったら、
戻れなくなるのが、怖いだけだ。
今の距離に戻れなくなること。
今まで通りの顔で、彼女の前に立てなくなること。
失うのが怖いのは、関係そのものなのか、
それとも、自分が保ってきた“安全な立場”なのか。
悠人は、静かに息を吐いた。
何も起きていない。
それでも確実に、
自分の中で何かが変わってしまったことだけは、否定できなかった。
朝は、何も壊れていないように見える。
けれどそれは、壊れていないのではなく――
まだ、壊す決断をしていないだけなのだと。
ただ、壊さないための距離だけが、少し難しくなっていた。
家を出て、いつもと同じ道を歩き、
いつもと同じ時間の電車に乗る。
改札を抜ける流れも、ホームに立つ位置も、
身体が覚えてしまっている。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
車内には、眠そうな顔や無表情な背中が並んでいる。
悠人は吊り革につかまりながら、
ぼんやりと窓に映る自分の姿を見ていた。
少し眠そうな顔。
目の下に、うっすら残る影。
特別な異変はない。
寝不足の朝だと言われれば、それで通ってしまう程度だ。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
理由のない不安、というほど曖昧なものではない。
けれど、はっきりと言葉にしてしまうには、まだ生々しすぎて、
無意識のうちに、考えないようにしている自分がいた。
電車が揺れるたび、
現実に引き戻されそうになるのに、思考だけが置いていかれる。
(……何を気にしてるんだ)
心の中で、そう呟く。
周囲には人がいるのに、その言葉だけが、やけに大きく響いた。
理由は、分かっているはずだった。
分かっているからこそ、考えないようにしている。
つり革を握る指に、少しだけ力が入る。
気づけば、ホルのことを思い浮かべていた。
今までも、何度も見てきた姿だ。
朝の寝起きの顔も、リラックスした横顔も、
何気ない仕草のひとつひとつも。
整った顔立ちで、目を引くところは多い。
街ですれ違えば、思わず視線を向けてしまうだろう。
綺麗だ、と思ったことは、正直にある。
けれどそれは、あくまで外見の話だった。
「綺麗だな」と思うことと、
「踏み込んでいい」と思うことは、
自分の中では、はっきりと別のものだった。
街ですれ違えば、少し目を留める程度の――
それ以上でも、それ以下でもない。
そういう種類の感覚だと、ずっと思ってきた。
「可愛い」とか、「好き」とか。
そういう言葉を使うには、どこか無責任な気がして、
きちんと線を引いてきたつもりだった。
一緒に暮らすようになってからも、意識しないようにしていた。
距離が近いからこそ、余計な感情を持ち込まないように。
それが、彼女にとっても、自分にとっても安全だと思っていた。
目指していたのは、恋人でも、特別な誰かでもない。
家族みたいな距離感。
そばにいて当たり前で、安心できる存在。
一緒にいても、気を張らなくていい。
沈黙が続いても、不安にならない。
必要以上に、期待もしないし、期待させもしない。
それが一番、穏やかで、壊れないと思っていたから。
そう思っていれば、
踏み込みすぎたとしても、言い訳ができた。
越えてはいけない線が、最初から存在しているような顔ができた。
けれど――。
ふと、ある日の光景がよぎる。
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いつのことだったのか、はっきりとは思い出せない。
特別な出来事があったわけでもない。
ただ、何気ない一瞬だったはずだ。
なのに、その場面だけが、妙に鮮明に残っている。
なぜ、その光景だったのかは分からない。
思い出そうとすると、細部は曖昧なのに、
胸の奥に残る感覚だけが、消えずに居座っている。
彼女を意識してしまった時点で、
もう“家族みたいな存在”ではいられなかった。
その事実が、じわじわと胸に広がる。
朝、声をかけられた時。
距離を詰められた時。
視線が合った、ほんの一瞬。
胸が跳ねた。
呼吸が、ほんの少しだけ乱れた。
理由を考えるよりも先に、
体が反応してしまったことが、何より厄介だった。
意識するな、と自分に言い聞かせる前に、
もう心臓は答えを出してしまっている。
(……違う)
今までと、同じではない。
同じ時間、同じ距離、同じ仕草。
それなのに、同じように受け取れなくなっている。
夢の中で言えた言葉は、
現実では、まだ一度も言えていない。
「好きだ」
あの夜、夢の中で自然に口にできた言葉。
迷いも、躊躇もなく、当たり前のように。
言葉にした瞬間、何も壊れなかったどころか、
不思議なほど、しっくりきてしまった。
まるで、ずっと胸の奥にあったものに、
ようやく名前を与えたような感覚だった。
目が覚めてからも、その感覚だけが残っている。
――夢だからだ。
――夢の中の話だ。
何度も、そう言い聞かせた。
夢なら、責任を負わなくていい。
夢なら、現実に持ち込まなくて済む。
けれど、現実の朝で。
現実の彼女を前にして。
同じ距離、同じ仕草なのに、
もう“何も感じないふり”はできなかった。
守っているつもりで、
実際には、逃げているだけなのかもしれない。
その考えが、胸の奥に静かに沈んでいく。
関係を壊したくない。
だから、踏み込まない。
そう言い訳をしてきた。
けれど本当は――
踏み込んでしまったら、
戻れなくなるのが、怖いだけだ。
今の距離に戻れなくなること。
今まで通りの顔で、彼女の前に立てなくなること。
失うのが怖いのは、関係そのものなのか、
それとも、自分が保ってきた“安全な立場”なのか。
悠人は、静かに息を吐いた。
何も起きていない。
それでも確実に、
自分の中で何かが変わってしまったことだけは、否定できなかった。
朝は、何も壊れていないように見える。
けれどそれは、壊れていないのではなく――
まだ、壊す決断をしていないだけなのだと。
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