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32話 その一言が、言えなくて
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仕事終わりが近づくにつれて、悠人の集中力は目に見えて落ちていた。
キーボードを叩く指が止まり、画面の同じ行を何度も読み返していることに気づいて、はっとする。
(……ダメだな)
意識してしまった時点で、負けだったのかもしれない。
朝のこと。
ホルの距離。
視線。声。
考えないようにしていたはずなのに、頭の隅から離れない。
(帰ったら……どうするんだ)
何もするつもりはない。
普段どおり、何事もなかった顔で過ごせばいい。
そう分かっているのに、その「普段」が、今日はうまく想像できなかった。
気づけば定時を過ぎていた。
「……残業?」
ふと声をかけられて顔を上げると、ゆきが書類を抱えて立っていた。
「珍しいですね、先輩がこの時間まで」
「ああ……ちょっと、キリが悪くてな」
本当は、集中できなかっただけだ。
ゆきは軽く笑って、机の横に立ったまま言う。
「最近忙しそうでしたもんね。ゲームとかも」
「ちゃんと気分転換、してます?」
「……してないな」
即答してから、自分でも少し可笑しくなる。
「それ、余計よくないですよ」
「ずっと同じ空気だと、頭固まりますし」
少し考える仕草をしてから、ゆきは何気なく続けた。
「静かなところなら、水族館とかどうです?」
「歩いて眺めてるだけで、意外とリセットされますよ」
水族館。
その言葉が、不思議と胸の奥に落ちた。
「……それも、いいな」
思わず零れた声に、ゆきは少し驚いたように目を瞬かせてから、にこりと笑った。
「ですよね。じゃあ、無理しないでくださいね」
それだけ言って、去っていく。
悠人は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
その日の帰り道。
気づけば、駅構内の券売機の前に立っていた。
(……なんで買ってるんだ)
チケットを受け取り、何気なく日付を見る。
――今月末まで有効。
(日付指定だと思ってたからな)
その場で決めなくていいらしい。
思っていたよりも、少しだけ余裕がある。
悠人はチケットを指で挟み、静かに財布へしまった。
家についてから、誘おうとするも、
悠人はタイミングを逃し続けた。
夕飯の支度をしているホルの背中を見る。
フライパンの音。立ちのぼる湯気。
(今なら……)
そう思った直後に、思い直す。
火の前で声をかけて、驚かせでもしたら危ない。
食事中。
テレビの音に紛れて、言えるかもしれないと口を開きかける。
けれど画面に向けられた視線を見て、やめた。
今は、楽しそうにしている。
邪魔をする理由はない。
片付けが終わった後。
立ち上がった拍子に、声が喉まで出かかって――引っ込む。
ここで声をかけて、皿でも落とされたら。
そんな想像が、勝手にブレーキをかけた。
(……何やってるんだ)
いざ言おうとすると、それが「誘い」だと、はっきり意識してしまう。
今までなら、買い物も外食も、イベントも、
何も考えずに一緒に行けていた。
家族みたいな距離、という建前があったから。
でも、水族館は――
どう考えても、デートに近い。
「……ホル」
やっと名前を呼んだ時、喉が少し詰まった。
「なに?」
振り返る顔が、あまりにも自然で。
それだけで、言葉が散っていく。
「あ、いや……その……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなる。
「……今日は、もう休もう」
逃げるようにそう言って、話を終わらせた。
寝室に入ってから、引き出しを開け、
買ったばかりのチケットをそっとしまう。
(期限は、まだある)
(そのうち、気軽に誘える時が来る)
言い訳を重ねながら、引き出しを閉めた。
何も起きていない。
けれど、何も起きなかったことだけが、
胸に引っかかって離れなかった。
キーボードを叩く指が止まり、画面の同じ行を何度も読み返していることに気づいて、はっとする。
(……ダメだな)
意識してしまった時点で、負けだったのかもしれない。
朝のこと。
ホルの距離。
視線。声。
考えないようにしていたはずなのに、頭の隅から離れない。
(帰ったら……どうするんだ)
何もするつもりはない。
普段どおり、何事もなかった顔で過ごせばいい。
そう分かっているのに、その「普段」が、今日はうまく想像できなかった。
気づけば定時を過ぎていた。
「……残業?」
ふと声をかけられて顔を上げると、ゆきが書類を抱えて立っていた。
「珍しいですね、先輩がこの時間まで」
「ああ……ちょっと、キリが悪くてな」
本当は、集中できなかっただけだ。
ゆきは軽く笑って、机の横に立ったまま言う。
「最近忙しそうでしたもんね。ゲームとかも」
「ちゃんと気分転換、してます?」
「……してないな」
即答してから、自分でも少し可笑しくなる。
「それ、余計よくないですよ」
「ずっと同じ空気だと、頭固まりますし」
少し考える仕草をしてから、ゆきは何気なく続けた。
「静かなところなら、水族館とかどうです?」
「歩いて眺めてるだけで、意外とリセットされますよ」
水族館。
その言葉が、不思議と胸の奥に落ちた。
「……それも、いいな」
思わず零れた声に、ゆきは少し驚いたように目を瞬かせてから、にこりと笑った。
「ですよね。じゃあ、無理しないでくださいね」
それだけ言って、去っていく。
悠人は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
その日の帰り道。
気づけば、駅構内の券売機の前に立っていた。
(……なんで買ってるんだ)
チケットを受け取り、何気なく日付を見る。
――今月末まで有効。
(日付指定だと思ってたからな)
その場で決めなくていいらしい。
思っていたよりも、少しだけ余裕がある。
悠人はチケットを指で挟み、静かに財布へしまった。
家についてから、誘おうとするも、
悠人はタイミングを逃し続けた。
夕飯の支度をしているホルの背中を見る。
フライパンの音。立ちのぼる湯気。
(今なら……)
そう思った直後に、思い直す。
火の前で声をかけて、驚かせでもしたら危ない。
食事中。
テレビの音に紛れて、言えるかもしれないと口を開きかける。
けれど画面に向けられた視線を見て、やめた。
今は、楽しそうにしている。
邪魔をする理由はない。
片付けが終わった後。
立ち上がった拍子に、声が喉まで出かかって――引っ込む。
ここで声をかけて、皿でも落とされたら。
そんな想像が、勝手にブレーキをかけた。
(……何やってるんだ)
いざ言おうとすると、それが「誘い」だと、はっきり意識してしまう。
今までなら、買い物も外食も、イベントも、
何も考えずに一緒に行けていた。
家族みたいな距離、という建前があったから。
でも、水族館は――
どう考えても、デートに近い。
「……ホル」
やっと名前を呼んだ時、喉が少し詰まった。
「なに?」
振り返る顔が、あまりにも自然で。
それだけで、言葉が散っていく。
「あ、いや……その……」
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなる。
「……今日は、もう休もう」
逃げるようにそう言って、話を終わらせた。
寝室に入ってから、引き出しを開け、
買ったばかりのチケットをそっとしまう。
(期限は、まだある)
(そのうち、気軽に誘える時が来る)
言い訳を重ねながら、引き出しを閉めた。
何も起きていない。
けれど、何も起きなかったことだけが、
胸に引っかかって離れなかった。
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