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第31話『決戦、名を呼ぶ者と奪う者』
しおりを挟む夜の帳が下りた薬庵は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。
けれど、その静寂は脆くも危うい均衡の上に成り立っていた。
「先生……今日、また王都から使者が来ていました。
庵に結界を張っていると聞きつけて、それを解くようにって」
ノアの報告に、リーナは小さく眉を寄せた。
「それはきっと、アゼルの入れ知恵ね。
王都が恐れているのは“名を護る結界”じゃない。
名を奪われて秩序が崩れるのを止めたいのなら、本当は庵を支えるべきなのに」
ノアは不安そうに俯く。
「……黒の処方師がまた来たら、先生どうするんですか?」
リーナは香瓶をそっと撫でた。
「決まってるわ。
私は薬師だから、名を奪う処方師を止める。
たとえ私自身の名を引き換えにしてでも――」
◆ ◆ ◆
夜半過ぎ。
庵の庭先を歩いていたリーナは、風の流れが変わったのを感じた。
(来た……!)
黒い影が門を越え、ゆっくりと歩み寄ってくる。
アゼル。
黒の処方師は以前よりさらに薄い気配をまとい、
どこか底の見えない闇を抱えていた。
「辺境の薬師よ。
貴様が護ろうとするその香は、名を縛り、痛みを増幅させる呪いだ」
「それは違う。
名は痛みだけじゃない。
それを呼んでくれる誰かがいるから、人は立ち上がれるの」
「くだらん。
では――試してみるか?」
アゼルが指先で黒い香を弾いた。
次の瞬間、地面を這うように濃密な《名奪い香》が溢れ出し、庵を包み込んだ。
リーナはすぐに調薬袋から《誓名心響香》を取り出し、砕いて香を広げた。
青い香が庵を覆い、患者たちの名を結んだ光が舞う。
「……やはり面白いな。
だが今夜は、それすら突破する」
アゼルの声が冷たく響く。
◆ ◆ ◆
アゼルが取り出したのは、小さな黒曜石の香壺だった。
「これは《名喰らい香》。
今までの香とは違う。
一度でも名を呼んだ者同士の絆を逆に利用し、その“名”をまとめて奪い取る」
「……なに……?」
「貴様が護った庵の患者たちの名。
その絆が強いほど、この香は深く侵食する」
リーナは一瞬、息を詰めた。
(私が……護ってきた患者たちの名を、逆手に……!)
アゼルが香壺を開くと、空気が重たく揺れた。
一気に胸を掴まれるような苦しさが襲う。
(だめ……これは、私だけじゃない。
庵に残っている患者たちの名も――)
ノアが駆け出してきた。
「先生……!」
「ノア!ここにいちゃダメ――!」
だが遅かった。
ノアが胸を押さえて苦しげに呻く。
「僕……名前が……名前が、消えそうで……!」
リーナは全身の血が凍る思いがした。
(私が護ってきたはずのものが……)
その瞬間、彼女は調薬袋に手を突っ込んだ。
取り出したのは、今まで決して使わないと決めていた香。
《心結界香:自傷式》
自分の名を自ら縛り、逆に患者たちの名を解放する処方。
香を砕くことで、患者たちを名奪いから守る代わりに、
リーナ自身の名前の記憶を深く封じ込める。
「これで……みんなを護る……!」
香を砕いた瞬間、白い光が爆ぜ、庵の中にいた患者たちの苦悶がぴたりと止んだ。
ノアが驚いたように顔を上げる。
「先生……今、何を……」
リーナは小さく笑った。
「ノア……あなたの名前、好きよ。
自分で呼べるその声が、ずっと好きだった」
けれど、胸の中で何かが冷えていく。
(私の名前……思い出せない……?)
アゼルが小さく舌打ちした。
「なるほどな。
自分の名を封じることで、他者の名を護ったか。
だが――それではお前自身は、もう名を呼ばれなくなる」
ノアが泣きそうな声で叫んだ。
「先生……僕の名前はノアです!
リーナ・ルミナス、僕はあなたの助手です!
だから……戻ってきて……!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が小さく疼いた。
(リーナ……ルミナス……私の……名前……)
けれどその響きは遠く、指先にかすかな震えが残るだけ。
アゼルがゆっくり歩み寄った。
「もう終わりだ、薬師。
お前は自分の名を忘れた。
これ以上私を拒む力はない」
◆ ◆ ◆
だが――
そのとき、庵の中から患者たちが一斉に飛び出してきた。
「リーナ先生を返せ……!」
「先生は私の名前を呼んでくれたんだ!」
「私はエリナ。先生が教えてくれた。自分の名前を大事にするって……!」
名を呼ぶ声が、次々に夜空に舞った。
その声が青い光になり、リーナの胸へと戻ってくる。
(ああ……これは……)
ノアが泣きながらリーナの手を握った。
「先生……!
リーナ・ルミナス!
あなたは、名を護ってきた人なんです……!」
小さく、その言葉に応えるように唇が動く。
「……リーナ……ルミナス……」
声に出した瞬間、胸に戻った無数の光が爆ぜるように広がった。
患者たちが護られてきたその名が、リーナを逆に護り返したのだ。
アゼルが大きく後退した。
「……馬鹿な。
他人の名の絆が、逆にお前を護るだと……!」
「ええ。
名は一人で抱えるものじゃない。
だから私が護ってきた名は、今度は私を護るのよ!」
リーナは調薬袋から最後の香を取り出し、強く握った。
《名響香・連響式》
庵に集った全ての患者の名を束ね、一つの響きとしてぶつける処方。
「これで終わりよ……アゼル!」
香を砕いた瞬間、夜空が一気に光で満ちた。
アゼルが顔を覆い、呻く。
「ぐ……あああ……!」
無数の声が夜を震わせた。
「私はイネス!」
「僕はルーク!」
「私はカイリ――!」
それは名を護るための叫びであり、
リーナがずっと調えてきた“心の処方”の集大成だった。
アゼルの身体から黒い香が剥がれ落ち、夜風に散っていった。
◆ ◆ ◆
アゼルは膝をつき、かすかに笑った。
「……これが……名を呼ぶ者の強さか」
「そうよ。
名を呼ぶのは痛い。
でも、それがあるから人は生きられるの」
アゼルは小さく目を閉じた。
「次は……私にも、呼んでくれる誰かがいればよかったな……」
そう呟くと、黒の処方師の姿は霧のように消えていった。
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