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五章
八、人の世の象徴
しおりを挟む響く馬蹄。
夜空をよく見てみると、一羽のホトトギスが飛んでいた。
「一人で先走って死んでたら世話ねぇよな」
「ご主人様!?」
「おい、厠鬼。あの長老を逃がすな、追いかけろ。見失わない様についてくだけでいい」
「え、ワ、ワカッた!」
「おい馬鹿、お前はこれ鳴らしとけ」
投げ渡されたのは小さな太鼓であった。腰に巻いて叩くやつである。
この窮地でなんとも間抜けな格好ではあるが、理由を聞いている暇はない。
楊甜は急ぎそれをポコポコと鳴らす。すると周囲を取り巻いていた怪異の多くが音を嫌がって去っていく。
「山の怪異は火や奇怪な音を嫌う奴が多い。ずっと鳴らしとけ」
「は、はい!」
「さて、後はお前だけだな。"羅刹鳥(らせつちょう)"」
墓地から生まれるとされる鳥の悪鬼「羅刹鳥」。その姿は人の倍もある体躯のカラスのようであり、爪は雪のように白い。
人に化けて祟りをもたらすとされる怪異であり、人の目玉を好んで食べるという生態を持っているのだとか。
羅刹鳥は頭を激しく振って火を掃い、血走った眼を諸葛恪に向けている。
馬上で再び弓を引き、放つ。羅刹鳥は射程から外れるように飛び上がってけたたましい金切り声を上げた。
「賢いな」
しかし矢を避けて、射程外に出たということはつまり、射撃が通用する怪異だということ。
馬腹を蹴る。そして次は鏑矢を放った。
遠くまで響く笛の音を上げる矢は、羅刹鳥のもとに届くころには勢いを失い、容易く叩き落とされる。
この位置なら脅威ではない。変な音を出していた矢を落とし、羅刹鳥は笑い、再び諸葛恪に視線を移す。
すると馬上に跨り立ち止まっていた諸葛恪は、もう弓をつがえていなかった。
あれはなんだ。木の板にも見えるそれの上には一本の矢が乗っている。
鏑矢は注意をそらすための一矢。本命はこっちか。そう、羅刹鳥が思い至った瞬間には既に矢は放たれていた。
「弩は再装填が難しいから、確実に当てたかったんだよ」
強弩(クロスボウ)。恐らくこの時代、最強の武器であろう。
その射程も弓より長く、何より素人でも扱えるという点が画期的であった。
人の業(わざ)が、怪異を越え始めていた。
喉を貫かれて堕ちた羅刹鳥の首を、剣で刎ねる。
諸葛恪はそんな「人の世」の象徴とも言うべき存在のようであった。
「おい馬鹿」
(ポコポコポコポコポコポコ)
「うるせぇ!!」
「ひぎぃっ」
飛んできた拳骨。
鈍い音が響くと同時に、諸葛恪の馬は嬉しそうにブルブルと唇を揺らした。
「厠鬼を追うぞ。後ろに乗れ」
「ご、ご主人様、そういえばどうしてここにっ!?」
「…悪かった」
「え? 今、え?」
「早く乗れ、置いて行くぞ」
ひょいと掴み上げられ、荷物のように馬の尻に乗せられる。
激しい揺れですこぶる気分が悪い。吐きそうだった。しかし、嬉しかった。
もう二度と振り落とされないように、楊甜は懸命に馬の尻にしがみついていた。
「諸葛恪、この先だ」
「あぁ、見えてる」
杜宇の先導に従い駆ける。川岸から逸れた獣道。
そこには両手を地につけて威嚇をする厠鬼と、額に汗を浮かべて立ち止まっている長老が居た。
ぐったりしてる楊甜を放っておき、諸葛恪は馬を降り、前へ出る。
「厠鬼、あの馬鹿を頼む」
「前に見た時と比べて、心なしか死相が薄くナッテルな。良い顔だ」
「そりゃあどうも」
汗を滲ませ、ひどく疲れている様子の老人だった。肌は青白く精気が無い。
しかしその瞳は嫌なほどに鋭い。恨みと怒りの籠った眼差しである。
諸葛恪はその目を正面から捉え、更に前へ一歩踏み出す。
「また会おうとあの時に言っておいて良かった。また会えたな、長老」
「儂はもう会いたくないと言ったはずなんじゃが」
「単刀直入に言う、降伏しろ。何の怪異の仕業かは知らないが、人々を怨恨に染め上げてまで戦争をさせるなどあまりに無意味だ」
「…何の話だ? ふっ、まさか怪異が儂らを操り、戦地に投じてると?」
老人はひぇひぇと不気味に笑い、諸葛恪は僅かに眉間に皺を寄せる。
以前、矛を交えた山越族の攻勢は、それは人の成せる突撃ではなかった。彼らと戦った兵士は皆、口を揃えてそう言う。
命が事切れる瞬間まで敵を殺そうともがき、捕虜に取られるくらいなら死を選ぶ。あまりにも命が軽く、恐ろしい「死兵」。
怪異に操られていなければつじつまが合わない。そう、諸葛恪も思っていた。
「やはりまだ若いな。小童、あれもまた"人"だよ。土地を奪われ、糧を奪われ、家族を奪われ、夷狄と蔑まれてきた我らの怒りが、我らを死兵とするのだ。それで降伏しろだと?馬鹿にするのも大概にせぇ」
「じゃあ何で、さっきはあれほどの怪異を飼いならしていたのだ」
「知らん。怪異は怨恨より生じる瘴気から産まれる。儂は長老として、その数多の怨恨を束ねる者。互いに利用し、利用されてるのさ」
諸葛恪は剣の柄に置いていた手を離す。そしてその手を、長老の前に差し出した。
何の真似だ。長老は睨むが、諸葛恪の表情は変わらない。
「降伏しろ。共に生きよう」
「…お前、何も聞いていなかったのか」
「聞いたうえでそう言っている。俺は諸葛恪。呉を、天下を変える男だ。そのためにはまず、貴方と手を握り合わなければならない」
「己が配下もまとめられん分際で理想を語るなど片腹痛し」
「そうか、そうだな。じゃあまた会おう。名を聞かせてくれ」
「于吉(うきつ)」
「…名も聞かせてはくれないか」
于吉。それは呉の皇帝"孫権"の兄"孫策"がかつて殺めたとされる、呉に住む仙人の名であった。
人々の支持を集めていたよく分からない怪しい于吉という仙人を斬り、孫策は人々に恨まれることになったという逸話がある。
勿論、諸葛恪もそれは知っていた。呉の人間なら誰もが知ってるだろう。
于吉が斬られた後、孫策は間もなく暗殺に倒れ、孫権が跡を継いだ。
長老はその名を騙り、そのまま山の中へ去っていく。
見えなくなるまでその背中を眺め、振り返ると、そこには草むらに嘔吐する楊甜と背中を擦る吼突曼が居た。
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