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五章
七、馬鹿の意地
しおりを挟む何と形容すれば良いのか。とにかく嫌な気配であった。それを楊甜や吼突曼は「瘴気」と呼んでいた。
長草を分け、木の根を踏み、喉が渇けばその根を千切ってしがむ。道の無い道を登り、気配を感じれば隠れ、一歩一歩進んでいく。
山暮らしの二人には特に抵抗心などない道のりだが、警戒を絶やさないでいるせいか疲労はどっと押し寄せる。
「そこら中に怪異が居るような。落ち着きませんね」
「これから夜だ。危ないヤツは夜に出るゾ。気をツケロ」
「吼突曼さん、大きくて強そうですし、ちょっとした相手なら勝てそうだけどなぁ」
「舐めるナ。俺は弱い。十歳くらいの人間のガキと喧嘩して、泣かサレル自信がある」
「何で偉そうなんだろ…」
こんな図体をして、得意なことは逃げることと隠れることと盗むこと。それが厠鬼という怪異であった。
ただ、その点に関しては心強い味方であった。
別に戦いに来たわけではない。楊甜の目的はあくまで諸葛恪のために有益な情報を得ることである。
知ることは力になる。
諸葛恪に教えられてきたことだ。故に知らなくてはならない。
自分達は今、何と戦っているのかを。
「それにしても人の気配がありませんね」
「人の居ないようなトコロを選び進んでいる。当たり前だ」
「それはそうですが。でもご主人様からは、この山に潜む不服従民は数十万人も居るって聞いていたので」
戦時とは思えない。本当にひっそりとした静かな自然ばかりが広がっている。だからこそ不気味でもある。
それどころか狼や野犬すら見ないし、遠吠えも聞こえない。鳥も猿も居ない。
ふと足元の石をひっくり返してみた。虫すらいやしない。ただ湿った黒い土が見えるだけだ。
「それで、マダ進むのか」
「え、あ、はい。より瘴気の濃い方へ。危なくなったらすぐ逃げましょう」
「モウ十分に危ないんだがな」
諸葛恪から解雇を告げられた涇県の城から南へ。段々と土は岩肌に変わり、高低差の激しい険峻な山々が並ぶ、壮観な光景が目に映る。
だが、やはり不自然なほどに人も生き物も居ない。瘴気が濃くなればなるほどに。
吼突曼も流石に不気味に感じたのか、敢えて山間の人の居そうな川沿いを進んでみることとした。
しかし居ない。もう日は沈み、月も雲に隠れ、暗闇と静けさが辺りに蔓延る。
「…引き返す。これ以上は無理だ。俺の本能が、ソウ言ってる」
「いや、もう引き返すほうが無理だと思います」
誘われている。何となくだが、楊甜はそう感じた。
つまり進む以外に道はない。引き返せば恐らく、もう二度と生きて帰ることは出来ないだろう。
ふと振り返ってみる。楊甜も夜目は利くはずなのに、手を伸ばした先すら全く見えなかった。
すると川沿いの先にひとつ、松明の明かりが灯った。
近づいてくる。山に登るために持っていた杖を構え、楊甜は少し腰を落とす。
いざとなったら戦うしかない。恐怖で呼吸は震えていた。
「…また会ったな。諸葛恪の従者よ」
「貴方は」
以前、諸葛恪と顧承とともに山中へ入った時に接触した、 山越族の「長老」であった。
松明の明かりに照らされた暗い顔。表情はよく分からない。
そして吼突曼は大きな図体を屈めて、すぐに逃げられるよう腰を引いていた。
「聞いている。主人に解雇されたらしいな」
「どうしてそれを」
「それで、何をしに来た。敵地に、丸腰で。連れているお仲間も"厠鬼"じゃあ、頼りにならんじゃろうて」
「おい楊甜、コイツは何者だ」
「長老、と呼ばれていた、たぶん敵の頭領です」
長老は不敵に微笑み、松明を持っていない方の左手を上げた。
すると暗闇の中からひとつ、ふたつ、辺りを囲むかのような眼光の数々。怪異である。それも狂暴な。
大きな猿に、人面の大山羊。多頭多尾の狐。黒く大きな怪鳥。水辺からもぬらりとトカゲのような顔をした怪人が。
いつのまに。恐ろしい怪異の数々がぐるりと辺りに蔓延っていた。
「人が、人喰いの怪異を飼いナラシて? あり得ないだろ、ソンナこと…」
「落頭民の子"楊甜"よ、お前も怪異であろう。人の世とは決して交じり合うことは無い存在。何故、そうまでして諸葛恪に尽くす」
「…人の世で偉くなる。それが僕の夢だから。そしてご主人様は僕の夢を笑わずに聞いてくれた人だからだ」
「それだけのことで命を捨てるのか」
「命を懸けるには十分すぎる理由です」
「犬が人になれぬように、怪異も人にはなれん。こっちに来い。怪異として生きるのだ」
「それが嫌だから山を下りたんだ!」
「なるほど、馬鹿であったか」
長老は手を下ろす。その瞬間に吼突曼は楊甜の細い腰を抱えて、一目半に駆けだした。
速い。とにかく足が速い。全力で腕を振り、力強く地を蹴る。
しかし相手は獣である。二足歩行の逃げ足になど容易に追いつくだろう。
そして行く手を塞ぐように、吼突曼よりも更に大きな体躯の怪鳥が降り立った。
目は丸く大きく、何よりも鼻が曲がりそうな腐敗臭。吼突曼の足が止まる。
「マ、マズイ!」
怪鳥が大きく口を開いた、その瞬間であった。
上空からひとつの瓶が落ちて、それが怪鳥の頭で割れた。
同時に一本の矢。
それが頭に付き立った瞬間、怪鳥は狂うように叫びながら燃え上がったのであった。
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