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五章
九、月明かりと焚火
しおりを挟む契約は果たした。吼突曼はそう言って、山を下りるとふっと消えていった。
彼が居なければ間違いなく自分は死んでいただろう。楊甜は深く礼をし、謝意を示した。
その後、ついてくるなと突っぱねられることは無かったので、恐る恐る諸葛恪の後に続く。
会話は無かった。だが、不思議と息苦しくはない。
曇っていた夜空はいつの間にか晴れていて、月明かりがいつにもまして眩しく見える。
「仕方ない、野営するか」
「え、でもここって最前線も最前線、というかもう敵地なんじゃ…」
「誰にも言わず一人でここに来たんだ。味方に見つかる方が面倒事になる」
殺される危険が十分にある地で休息をとる方が、味方に叱られるよりマシだと言う。諸葛恪らしい判断であった。
朽ち木の側に馬を繋ぎ、落ちていた木の棒を削り、それで穴を掘る。
そこに乾いた枯葉や小枝を入れて燃やす。寒空の下、手をかざすと内側からじわじわと痺れるような心地よさがあった。
「おい、馬鹿」
「は、はい」
「お前は子供の頃に、一番最初に親から教わったことを覚えてるか」
「え?」
急に何の話だろう。火を見つめる諸葛恪の横顔を、楊甜は不思議そうに見つめた。
火はぱちぱちと音を立てている。そこに今度は少し太い朽ち木を放り込んだ。
「たぶん、どこの家も同じだろう。子は親から最初に、悪いことをしたら謝る、ということを教わる」
「確かに言われてみれば」
「だが歳を取ると、謝れなくなる。偉くなるにつれ頭を下げられなくなる。子供はみんな出来るのに、だ」
「自分が悪いことをしてるって、思えないし、思いたくないですしね」
「楊甜、すまなかった」
え。そう言って目を丸くする楊甜と、相変わらず火を見つめたままの諸葛恪。
視線は合わない。まだ諸葛恪の心の内に残っている抵抗心が、気恥ずかしさとして現れているのだろう。
「戦に負け、目の前で人が死んだ。全ては総司令官であった自分の責だった。もう二度と負けてはならないと思い、甘さを捨てた。そしてお前は、俺の甘さを示す存在だった」
やる気だけの馬鹿で、首も飛ばせない落頭民の落ちこぼれ。
その甘さを削ぎ落せば、自分は変われる。
付いて来れない者を全て削ぎ落せば、自分の才を存分に活かせる。そう思った。
「だが、結果は変わらなかった。結局今なお戦いは続き、敵も味方も怨恨を募らせ、解決の糸口は見えない。つまりこれは俺の誤りだ。そのせいでお前を危険に晒してしまった」
「もしかしてご主人様は、僕を戦地から遠ざけようと…?」
「そう言われると癪ではあるが。だがお前は俺の思惑を上回る馬鹿だった。危険な敵地に一人で乗り込むなんてな。いや、厠鬼もいたか」
「す、すいません」
「…お前を、見殺しにすることだって出来た。でも気づけば駆けだしていた。そしてそれで良かったと、今は心底そう思う」
手持無沙汰で薪を棒でつつく諸葛恪の表情は、どこか柔らかかった。
楊甜は袖で目を拭い、鼻を啜る。そして体の正面を諸葛恪に向け、額を地につける。
「謝らなければならないのは僕の方です。ご主人様はずっと努力し、研鑽を積み、苦悩しておられました。ですが僕はそんなご主人様に甘え、付いていく努力を怠っていたと思います。全てご主人様は一人で何とかしてしまえるだろうと、そう思ってしまいました」
「…」
「もう、絶対に振り払われることの無いようにします。何が何でも喰らいつきます。なのでどうか、もう一度僕を御側に置いていただけないでしょうか」
「うん、そうだな。言われてみれば確かに悪いのはお前の方で、もしかしたら俺は悪くなかったやもしれん」
「あれ?」
「冗談だ」
楊甜が頭を上げると、諸葛恪は意地悪そうな笑顔を向けていた。
思えば諸葛恪がこんな表情を自分に向けてくれたのは初めてのことのような気がして、また涙が滲む。
こうして落ちこぼれの落頭民は再び、呉国の誇る天才に拾われた。
そして、包囲が始まって一年が経とうとした頃である。
ついに山が動いた。先の故鄣県での戦いの規模をはるかに超える攻勢が始まろうとしていたのだ。
これが最後の決戦になるだろう。諸葛恪はそれを直感した。
場所は最前線の要所"宛陵県"。心臓を取りに来た、ということだろう。
すでに呉の出征軍は帰還した。つまり全ての呉の人間の目が、諸葛恪に向いているということになる。
しかし諸葛恪は以前ほどの重圧を感じなかった。
敵が動いた。つまり我慢比べに勝った。全ていい方向に進んでいると、そう思えていたからだ。
そしてこの戦争の目的は「勝利」することではない。
勝ち負けの先を見なければならない。もう、諸葛恪は迷っていなかった。
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