彼女の離縁とその波紋

豆狸

文字の大きさ
8 / 10

第八話 ユーグ

しおりを挟む
 ユーグの母は病弱だった。
 若くしてユーグを産んだからだろう。
 父はいない。母は貴族の家で下働きをしていたときに、その家の息子に弄ばれたのだ。

 母がユーグに泣き言や恨み言を聞かせたことはない。
 ユーグは母が大好きだった。
 父のことは成長してから他人の噂話を聞いて知った。自分の存在が母を苦しめているのではないかと悩むユーグに師匠は、気にするな、と言ってくれた。母はユーグを愛しているから、希望をもって生きられるのだと。

 師匠は下町に診療所を開いている変わり者の医師だ。
 ユーグは母の薬が欲しくて、物心ついたころから診療所で手伝いをしていた。
 やがて医学にも興味を持つようになり、師匠が親友の商人に紹介してくれて本格的に勉強を始めた。そのころには母も元気になっていたし、師匠と結婚していたから心配することも無かった。

 母のことがあって貴族には最初から反感を抱いていたが、義父のように下町で診療所を開くためには金が必要だった。
 下町は広く、貧しい人々は病気にかかりやすく治りにくい。
 義父の診療所だけですべてに対処出来るわけではなかったのだ。

 ユーグは後援者である商人の頼みで、とある男爵家の主治医となった。
 ジョアンヌの父親の家だ。
 義兄に金を出して雇ってもらっているにもかかわらず、男爵はユーグを若造と莫迦にしてきた。ユーグが娘とひとつしか違わない若さだったことも気に入らなかったようだ。ユーグ自身も妾を囲って妻子を冷遇している男爵が嫌いになった。

 それでもユーグは、彼がやまいで死にかけたときは真摯に治療をした。
 医師としての矜持もあったし──

『ユーグ先生、お父様を助けてください』

 そう言って、ジョアンヌが泣いていたからだ。

 彼女が父親の男爵を心から愛していたとは思えない。
 だけど彼女は母親を愛していた。親娘は愛し愛されていた。その愛する母親が愛する父親を彼女も愛したかったのだろう。
 少なくとも案じる心に嘘は無かった。

 はっきり性病とは告げなかったとはいえ、ユーグは男爵のやまいが妾から移ったのであろうことは話していた。
 きっとジョアンヌは思ったのだ。
 やまいさえ治れば男爵父親は、母親を愛するようになるに違いない。だって死にかねないやまいを移したのは妾なのだから、と。

 高熱によって子種を失うことは防げなかったけれど、ユーグは男爵を完治させた。
 そのときに学んだ技法で、ユーグはこのやまいの治療の最高峰として知られるようになった。
 年齢を重ねたこともあって、今のユーグを若造だと侮る人間はいない。どんなに身分の高い貴族でも、ユーグの治療を求めて頭を下げてくる。

 金はあればあるほど良い。
 今は自分が診療所を開くのではなく、下町の人間を支援して多くの医師を生み出そうとしている。
 師匠はもちろん、後援者の商人も力を貸してくれていた。

 男爵家の主治医でなくなった後、ユーグは貴族相手の医師として日々を過ごしている。
 心のどこかで活躍して叙爵されることを望んでいた。
 顔も知らない父を見返すためではない。

 ユーグは恋をしていたのだ。

『お父様を治してくださってありがとうございます、ユーグ先生! 先生は世界一のお医者様です』

 満面の笑みでそう言ってくれた男爵令嬢ジョアンヌに。

 彼女の父親である男爵は助けられたものの、残念ながら夫からやまいを移された母親を助けることは出来なかった。
 女性ということでべつの医師が担当していたが、男爵の治療でユーグが学んだことはすべて教えた。それでも助けられなかった。
 感染から発病までに潜伏期間があることにもっと早く気づいていれば、ジョアンヌの母親の命は助かっていたかもしれない。

 ジョアンヌに恋したユーグが叙爵を望んだのは、男爵が妾の子どもを当主にするために彼女を跡取りから外したからだ。
 男爵は、跡取り娘として厳しい教育を受けて頑張っていた彼女の努力を捨て去った。やまいに苦しむ男爵を案じていた愛情すら踏み躙ったのだ。
 ユーグが男爵よりも身分の高い貴族になり、妻となったジョアンヌが見事に家を運営するところを見せてやれば、意趣返しになると思ったのである。

(……私がなにかするまでもなく、男爵は罰を受けたな)

 考えてみれば、自分の子どもと信じていなければ娘のジョアンヌを追い出してまで、妾の子どもを当主にしようとするはずがない。
 男爵は子種を失ったことを知らなかったのだ。
 知っていれば娘を大切にしたかもしれないし、逆にジョアンヌが男爵家に縛り付けられて不幸になっていたかもしれない。どちらが良かったのか、ユーグにはわからない。

 ユーグは今、ジョアンヌのいる神殿へ向かって歩いていた。
 あのやまい治療の最高峰として知られているユーグは、彼女の元夫エルマンの治療を依頼された。
 恋した女性の婚約者で配偶者で、彼女をとことん虚仮こけにしていた男だ。殺してやりたいと思ったこともあったけれど、ユーグはいつものように真摯に治療をした。医師である自分を裏切ることは出来ない。

 私情で患者を見捨てたら、二度と彼女ジョアンヌの笑顔を思い出すことは出来なくなるだろう。

(彼は完治した。子種を蘇らせることは出来ないが……)

 ジョアンヌがエルマンと婚約する前に気持ちを打ち明けていたら、なにかが変わっていたのだろうか。──ユーグにはわからない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「はあ、何のご用ですの?」〜元溺愛婚約者は復縁を望まない〜

小砂青
恋愛
伯爵令嬢フランチェスカは美貌と教養を兼ね備えた才女でありながら、婚約者であるイシュメルを溺愛していた。 しかし彼女の誕生日、イシュメルは他に愛する人ができたからとフランチェスカとの婚約を破棄してしまう。 それから2年。イシュメルはフランチェスカとの婚約破棄を後悔し、今でも自分を待っていると信じて疑わず彼女を迎えにいくが……?

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

婚約者とその幼なじみの距離感の近さに慣れてしまっていましたが、婚約解消することになって本当に良かったです

珠宮さくら
恋愛
アナスターシャは婚約者とその幼なじみの距離感に何か言う気も失せてしまっていた。そんな二人によってアナスターシャの婚約が解消されることになったのだが……。 ※全4話。

愛はリンゴと同じ

turarin
恋愛
学園時代の同級生と結婚し、子供にも恵まれ幸せいっぱいの公爵夫人ナタリー。ところが、ある日夫が平民の少女をつれてきて、別邸に囲うと言う。 夫のナタリーへの愛は減らない。妾の少女メイリンへの愛が、一つ増えるだけだと言う。夫の愛は、まるでリンゴのように幾つもあって、皆に与えられるものなのだそうだ。 ナタリーのことは妻として大切にしてくれる夫。貴族の妻としては当然受け入れるべき。だが、辛くて仕方がない。ナタリーのリンゴは一つだけ。 幾つもあるなど考えられない。

あなたが捨てた花冠と后の愛

小鳥遊 れいら
恋愛
幼き頃から皇后になるために育てられた公爵令嬢のリリィは婚約者であるレオナルド皇太子と相思相愛であった。 順調に愛を育み合った2人は結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。。。 そんなある日、隣国から王女であるルチア様が側妃として嫁いでくることを相談なしに伝えられる。 リリィは強引に話をしてくるレオナルドに嫌悪感を抱くようになる。追い打ちをかけるような出来事が起き、愛ではなく未来の皇后として国を守っていくことに自分の人生をかけることをしていく。 そのためにリリィが取った行動とは何なのか。 リリィの心が離れてしまったレオナルドはどうしていくのか。 2人の未来はいかに···

婚約する前から、貴方に恋人がいる事は存じておりました

Kouei
恋愛
とある夜会での出来事。 月明りに照らされた庭園で、女性が男性に抱きつき愛を囁いています。 ところが相手の男性は、私リュシュエンヌ・トルディの婚約者オスカー・ノルマンディ伯爵令息でした。 けれど私、お二人が恋人同士という事は婚約する前から存じておりましたの。 ですからオスカー様にその女性を第二夫人として迎えるようにお薦め致しました。 愛する方と過ごすことがオスカー様の幸せ。 オスカー様の幸せが私の幸せですもの。 ※この作品は、他投稿サイトにも公開しています。

ローザとフラン ~奪われた側と奪った側~

水無月あん
恋愛
私は伯爵家の娘ローザ。同じ年の侯爵家のダリル様と婚約している。が、ある日、私とはまるで性格が違う従姉妹のフランを預かることになった。距離が近づく二人に心が痛む……。 婚約者を奪われた側と奪った側の二人の少女のお話です。 5話で完結の短いお話です。 いつもながら、ゆるい設定のご都合主義です。 お暇な時にでも、お気軽に読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。

【完結】愛されない令嬢は全てを諦めた

ツカノ
恋愛
繰り返し夢を見る。それは男爵令嬢と真実の愛を見つけた婚約者に婚約破棄された挙げ句に処刑される夢。 夢を見る度に、婚約者との顔合わせの当日に巻き戻ってしまう。 令嬢が諦めの境地に至った時、いつもとは違う展開になったのだった。 三話完結予定。

処理中です...