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第八話 ユーグ
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ユーグの母は病弱だった。
若くしてユーグを産んだからだろう。
父はいない。母は貴族の家で下働きをしていたときに、その家の息子に弄ばれたのだ。
母がユーグに泣き言や恨み言を聞かせたことはない。
ユーグは母が大好きだった。
父のことは成長してから他人の噂話を聞いて知った。自分の存在が母を苦しめているのではないかと悩むユーグに師匠は、気にするな、と言ってくれた。母はユーグを愛しているから、希望をもって生きられるのだと。
師匠は下町に診療所を開いている変わり者の医師だ。
ユーグは母の薬が欲しくて、物心ついたころから診療所で手伝いをしていた。
やがて医学にも興味を持つようになり、師匠が親友の商人に紹介してくれて本格的に勉強を始めた。そのころには母も元気になっていたし、師匠と結婚していたから心配することも無かった。
母のことがあって貴族には最初から反感を抱いていたが、義父のように下町で診療所を開くためには金が必要だった。
下町は広く、貧しい人々は病気に罹りやすく治りにくい。
義父の診療所だけですべてに対処出来るわけではなかったのだ。
ユーグは後援者である商人の頼みで、とある男爵家の主治医となった。
ジョアンヌの父親の家だ。
義兄に金を出して雇ってもらっているにもかかわらず、男爵はユーグを若造と莫迦にしてきた。ユーグが娘とひとつしか違わない若さだったことも気に入らなかったようだ。ユーグ自身も妾を囲って妻子を冷遇している男爵が嫌いになった。
それでもユーグは、彼が病で死にかけたときは真摯に治療をした。
医師としての矜持もあったし──
『ユーグ先生、お父様を助けてください』
そう言って、ジョアンヌが泣いていたからだ。
彼女が父親の男爵を心から愛していたとは思えない。
だけど彼女は母親を愛していた。親娘は愛し愛されていた。その愛する母親が愛する父親を彼女も愛したかったのだろう。
少なくとも案じる心に嘘は無かった。
はっきり性病とは告げなかったとはいえ、ユーグは男爵の病が妾から移ったのであろうことは話していた。
きっとジョアンヌは思ったのだ。
病さえ治れば男爵は、母親を愛するようになるに違いない。だって死にかねない病を移したのは妾なのだから、と。
高熱によって子種を失うことは防げなかったけれど、ユーグは男爵を完治させた。
そのときに学んだ技法で、ユーグはこの病の治療の最高峰として知られるようになった。
年齢を重ねたこともあって、今のユーグを若造だと侮る人間はいない。どんなに身分の高い貴族でも、ユーグの治療を求めて頭を下げてくる。
金はあればあるほど良い。
今は自分が診療所を開くのではなく、下町の人間を支援して多くの医師を生み出そうとしている。
師匠はもちろん、後援者の商人も力を貸してくれていた。
男爵家の主治医でなくなった後、ユーグは貴族相手の医師として日々を過ごしている。
心のどこかで活躍して叙爵されることを望んでいた。
顔も知らない父を見返すためではない。
ユーグは恋をしていたのだ。
『お父様を治してくださってありがとうございます、ユーグ先生! 先生は世界一のお医者様です』
満面の笑みでそう言ってくれた男爵令嬢ジョアンヌに。
彼女の父親である男爵は助けられたものの、残念ながら夫から病を移された母親を助けることは出来なかった。
女性ということでべつの医師が担当していたが、男爵の治療でユーグが学んだことはすべて教えた。それでも助けられなかった。
感染から発病までに潜伏期間があることにもっと早く気づいていれば、ジョアンヌの母親の命は助かっていたかもしれない。
ジョアンヌに恋したユーグが叙爵を望んだのは、男爵が妾の子どもを当主にするために彼女を跡取りから外したからだ。
男爵は、跡取り娘として厳しい教育を受けて頑張っていた彼女の努力を捨て去った。病に苦しむ男爵を案じていた愛情すら踏み躙ったのだ。
ユーグが男爵よりも身分の高い貴族になり、妻となったジョアンヌが見事に家を運営するところを見せてやれば、意趣返しになると思ったのである。
(……私がなにかするまでもなく、男爵は罰を受けたな)
考えてみれば、自分の子どもと信じていなければ娘のジョアンヌを追い出してまで、妾の子どもを当主にしようとするはずがない。
男爵は子種を失ったことを知らなかったのだ。
知っていれば娘を大切にしたかもしれないし、逆にジョアンヌが男爵家に縛り付けられて不幸になっていたかもしれない。どちらが良かったのか、ユーグにはわからない。
ユーグは今、ジョアンヌのいる神殿へ向かって歩いていた。
あの病治療の最高峰として知られているユーグは、彼女の元夫エルマンの治療を依頼された。
恋した女性の婚約者で配偶者で、彼女をとことん虚仮にしていた男だ。殺してやりたいと思ったこともあったけれど、ユーグはいつものように真摯に治療をした。医師である自分を裏切ることは出来ない。
私情で患者を見捨てたら、二度と彼女の笑顔を思い出すことは出来なくなるだろう。
(彼は完治した。子種を蘇らせることは出来ないが……)
ジョアンヌがエルマンと婚約する前に気持ちを打ち明けていたら、なにかが変わっていたのだろうか。──ユーグにはわからない。
若くしてユーグを産んだからだろう。
父はいない。母は貴族の家で下働きをしていたときに、その家の息子に弄ばれたのだ。
母がユーグに泣き言や恨み言を聞かせたことはない。
ユーグは母が大好きだった。
父のことは成長してから他人の噂話を聞いて知った。自分の存在が母を苦しめているのではないかと悩むユーグに師匠は、気にするな、と言ってくれた。母はユーグを愛しているから、希望をもって生きられるのだと。
師匠は下町に診療所を開いている変わり者の医師だ。
ユーグは母の薬が欲しくて、物心ついたころから診療所で手伝いをしていた。
やがて医学にも興味を持つようになり、師匠が親友の商人に紹介してくれて本格的に勉強を始めた。そのころには母も元気になっていたし、師匠と結婚していたから心配することも無かった。
母のことがあって貴族には最初から反感を抱いていたが、義父のように下町で診療所を開くためには金が必要だった。
下町は広く、貧しい人々は病気に罹りやすく治りにくい。
義父の診療所だけですべてに対処出来るわけではなかったのだ。
ユーグは後援者である商人の頼みで、とある男爵家の主治医となった。
ジョアンヌの父親の家だ。
義兄に金を出して雇ってもらっているにもかかわらず、男爵はユーグを若造と莫迦にしてきた。ユーグが娘とひとつしか違わない若さだったことも気に入らなかったようだ。ユーグ自身も妾を囲って妻子を冷遇している男爵が嫌いになった。
それでもユーグは、彼が病で死にかけたときは真摯に治療をした。
医師としての矜持もあったし──
『ユーグ先生、お父様を助けてください』
そう言って、ジョアンヌが泣いていたからだ。
彼女が父親の男爵を心から愛していたとは思えない。
だけど彼女は母親を愛していた。親娘は愛し愛されていた。その愛する母親が愛する父親を彼女も愛したかったのだろう。
少なくとも案じる心に嘘は無かった。
はっきり性病とは告げなかったとはいえ、ユーグは男爵の病が妾から移ったのであろうことは話していた。
きっとジョアンヌは思ったのだ。
病さえ治れば男爵は、母親を愛するようになるに違いない。だって死にかねない病を移したのは妾なのだから、と。
高熱によって子種を失うことは防げなかったけれど、ユーグは男爵を完治させた。
そのときに学んだ技法で、ユーグはこの病の治療の最高峰として知られるようになった。
年齢を重ねたこともあって、今のユーグを若造だと侮る人間はいない。どんなに身分の高い貴族でも、ユーグの治療を求めて頭を下げてくる。
金はあればあるほど良い。
今は自分が診療所を開くのではなく、下町の人間を支援して多くの医師を生み出そうとしている。
師匠はもちろん、後援者の商人も力を貸してくれていた。
男爵家の主治医でなくなった後、ユーグは貴族相手の医師として日々を過ごしている。
心のどこかで活躍して叙爵されることを望んでいた。
顔も知らない父を見返すためではない。
ユーグは恋をしていたのだ。
『お父様を治してくださってありがとうございます、ユーグ先生! 先生は世界一のお医者様です』
満面の笑みでそう言ってくれた男爵令嬢ジョアンヌに。
彼女の父親である男爵は助けられたものの、残念ながら夫から病を移された母親を助けることは出来なかった。
女性ということでべつの医師が担当していたが、男爵の治療でユーグが学んだことはすべて教えた。それでも助けられなかった。
感染から発病までに潜伏期間があることにもっと早く気づいていれば、ジョアンヌの母親の命は助かっていたかもしれない。
ジョアンヌに恋したユーグが叙爵を望んだのは、男爵が妾の子どもを当主にするために彼女を跡取りから外したからだ。
男爵は、跡取り娘として厳しい教育を受けて頑張っていた彼女の努力を捨て去った。病に苦しむ男爵を案じていた愛情すら踏み躙ったのだ。
ユーグが男爵よりも身分の高い貴族になり、妻となったジョアンヌが見事に家を運営するところを見せてやれば、意趣返しになると思ったのである。
(……私がなにかするまでもなく、男爵は罰を受けたな)
考えてみれば、自分の子どもと信じていなければ娘のジョアンヌを追い出してまで、妾の子どもを当主にしようとするはずがない。
男爵は子種を失ったことを知らなかったのだ。
知っていれば娘を大切にしたかもしれないし、逆にジョアンヌが男爵家に縛り付けられて不幸になっていたかもしれない。どちらが良かったのか、ユーグにはわからない。
ユーグは今、ジョアンヌのいる神殿へ向かって歩いていた。
あの病治療の最高峰として知られているユーグは、彼女の元夫エルマンの治療を依頼された。
恋した女性の婚約者で配偶者で、彼女をとことん虚仮にしていた男だ。殺してやりたいと思ったこともあったけれど、ユーグはいつものように真摯に治療をした。医師である自分を裏切ることは出来ない。
私情で患者を見捨てたら、二度と彼女の笑顔を思い出すことは出来なくなるだろう。
(彼は完治した。子種を蘇らせることは出来ないが……)
ジョアンヌがエルマンと婚約する前に気持ちを打ち明けていたら、なにかが変わっていたのだろうか。──ユーグにはわからない。
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