竜族への生贄かと思ったら、王子の愛妻になったのですが。

高城

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(19)出来ること≠出来なければいけないこと②

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 三時を少し過ぎた頃、リアはようやく布団から這い出した。

 目を開けてもしばらくは頭がぼんやりしていて、夢の中を漂っているような感覚が抜けきらない。胸の奥に残るもやもやとした感触は、眠りが浅かったせいか、それとも――答えは、自分でも分からない。

 とりあえず水でも飲もうかと思い、髪に手櫛を入れながら部屋を出たところで、廊下の向こうから現れた人影と鉢合わせた。

「……お兄ちゃん」
「おう。やっと起きたのか」

 アイザックだった。変わらぬ無造作な髪と、どこか見慣れた安堵の表情。その顔を見た瞬間、リアはようやく現実に戻ってきた気がした。

 ふっと、アイザックの口元がゆるむ。

「寝癖、ついてるぞ」
「えっ!? うそ、どこ……!」

 リアは慌てて髪をかき上げ、首を捻るようにして鏡のない空間で寝癖を探し始める。両手でハーフアップの崩れた髪を直しながら、口元をぎゅっと引き結ぶ。

 そんな妹の必死な様子を見て、アイザックは小さく吹き出した。

「食事を抜くなんて、よっぽどのことがあったんだな。昨日、テオに告白でもされたか?」
「――っ!」

 リアの手が、ぴたりと止まった。
 見る見るうちに頬に赤みが差し、彼女は目を泳がせながらぎこちなく背筋を伸ばす。

「な、なんで……!?」

 声が上ずっていて、もうそれが答えのようなものだった。
 そんな彼女の様子に、アイザックもしまったと言わんばかりの顔をした。

「いや、冗談だったんだけどな……」
「カマかけたの……?」
「ち、違う! ただの冗談だよ。たまたま、当たっちまっただけだって」

 必死に否定する兄を睨むように見上げながら、リアは頬を膨らませた。眉間に薄らと皺を寄せて、小さく唇を尖らせる。
 アイザックは照れたように頭をかいて、それでもどこか懐かしむような目をして続けた。

「ごめんって。……でもさ、そういう顔も久しぶりに見たなって思って」

 思わず、といった調子で、リアの照れ隠しの怒りさえも、どこか嬉しそうに受け止めているようだった。

 兄妹であるというだけで、全部分かっているわけではない。だけど、表情ひとつで伝わるものもある。リアが動揺していたのは明らかだったし、何より――

「ま、村にいた頃から、テオの気持ちに気づいてなかったのはお前だけだったよ」

 ぽん、と頭に大きな手が乗る。
 リアは抵抗もできずに俯き、唇を噛んだ。否定したいのに、あんなふうに優しい目をして好きだと言ってくれたテオのことを思い出したら、そんなこと出来なかった。からかわれるのだって嫌なのに、兄の言葉が妙に柔らかくて、反論出来なかった。

「……本当に、みんなは知ってたの?」
「だって、バレバレだったろ。あいつ、母さんにすら『リアのこと好きなんでしょ?』って言われてたんだぞ」

 リアの顔がさらに赤くなる。目を丸くして、信じられないといった風に兄を見上げた。

 アイザックは笑いながら、その手をそっと離す。

「テオのこと、どうしたいかは自分で決めろよ。俺は何があっても、お前の味方だからさ」

 そう言い残して、兄は歩き出した。
 広い廊下に残されたリアは、手の甲で頬の熱を隠すように撫でながら、息をつく。

 ――こんなに誰かの気持ちに戸惑うのは、初めてだった。
 好きって、どういうことなんだろう。誰かの気持ちを受け取るって、どうすればいいんだろう。

 そのまま、水を求めて足を進めると、廊下の突き当たりにあるキッチンの辺りから、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

「いい匂い……」

 何か焼いているのだろうか。香ばしい匂いに、空腹なことを思い出す。扉を開けると、中には二人の人影があった。

 ギルフォードとレオンハルト。
 大きなテーブルにはすでに器具が並び、コンロの前にはフライパンが熱されている。ギルフォードは器用な手付きで何かを切っていて、レオンハルトは慣れない手で生地を広げていた。

 先に気づいたのはギルフォードだった。かち合った視線に、思わず背筋が伸びる。すぐに、レオンハルトもこちらを向いた。

「リア。体調は大丈夫?」
「うん、ちょっと眠かっただけ。何か作ってるの?」

 喉が渇いていたので、リアは台所の隅にある水差しから冷たい水を注ぎながら、二人の作業に目をやる。

「アフタヌーンティー用のクレープだよ。生クリームが余ってたから、何か甘いものでも作ろうって思って」

 レオンハルトがそう言いながら、生地をフライパンの上に広げた。

 ……が。

「おい。さっきも言ったよな? 生地入れすぎんなってよ」
「でも、薄くすると破れる」
「破れねえように返すんだよ! そこを慎重にやれっての!」
「あっ……」

 ギルフォードが短く怒鳴る。その声に驚いたレオンハルトの手が一瞬止まり、次の瞬間、生地がぐにゃりと折れ曲がってフライパンの端に引っかかった。そして、ぺしゃ、とコンロ脇に落ちる。

「………。」
「もういい。貸せ」

 呆れたようにそう言って、ギルフォードはレオンハルトの手からフライパンと器具をスパッと奪い取った。

「ちょ、ギル」
「いいから見てろ。こうやんだよ」

 ギルフォードは軽やかにフライパンを傾け、薄く伸ばした生地をフライ返しで返す。無駄な動きが一切ない。ぱしりと心地よい音がして、きれいな円形の生地が返った。

「僕が一人でやりたかった」
「んなもん、準備の段階で無理だって分かったわ」
「コーヒー取りに来ただけなのに、すぐ助けてくれたよね」
「食品の無駄を防いだんだよ。何作るにしても、もうちっと練習しとけ!」

「わぁ、すごい……」

 少し拗ねたようにフライパンを眺めるレオンハルトと、文句を垂れながらも手を動かすギルフォードを見ながら、思わずリアの口から声が漏れる。

 そのあとも、ギルフォードは無言で生地を流し入れ、伸ばし、返し、焼き上げていった。無駄な手順もなく、息を詰めるような集中力で、完璧な出来栄えのクレープが一枚ずつ皿の上に重ねられていく。

 その様子を見ながら、リアはぽつりと呟いた。

「ギルフォード様……お料理、できるんですね」

 すると、なぜかそれに反応したのはレオンハルトだった。

「ギルはなんでも出来るんだ」

 胸を張って言い切る様子は、まるで自分のことのように誇らしげだった。

 生地を全て焼き終えたギルフォードは、冷蔵庫を開け、中から保存容器を取り出した。中には、桃やベリーを蜂蜜に漬けた果実がたっぷりと入っている。
 焼きあがってから円錐形に折り畳んだクレープを皿に乗せ、中央に果実と蜂蜜を持った。最後に固めに立てた生クリームと、ミントの葉を添えて――

「えぇ、おしゃれ。お店のみたいです」
「フン」

 リアから思わずこぼれた感想に、ギルフォードは当たり前のような顔をして、それだけ返した。皿を何枚が出して同じように作っていくのを見ると、おそらく全員分用意してくれているんだろう。

 ――器用な人。無駄なことはしないし、冷静で、何でも一人でこなしてしまう。きっとこの人は、一通りなんでも出来るんだろう。

 少し前まで、リアはギルフォードのそんなところに戸惑っていた。近づきがたくて、自分とは違う世界の人のように思っていた。けれど、こうして日常の中でふと見せる一面に、リアの胸は静かに揺れる。
 ギルフォードの指先から生まれるものは、どれも無駄がなくて、美しい。

 レオンハルトは、ギルフォードが綺麗に盛りつけたクレープを嬉しそうに見つめていた。

「なんか、本当に売り物みたいだ」
「ね。果物たっぷりで美味しそう」

 そう言って笑い合うと、レオンハルトは食堂用のワゴンにそれらを丁寧に並べていく。

「僕、食堂に運んでから、みんなに声かけてくる」

 最後の皿まで運び終えると、そう言い残し、ワゴンを押して出ていった。

 扉が閉まった瞬間、部屋の空気が少しだけ静まり返った。
 ギルフォードと二人きりになったリアは、ぽつんと取り残されたような心持ちで、周囲に視線を彷徨わせる。手持ち無沙汰だ。気まずいわけではないけれど、何かしていないと落ち着かない。

 シンクに置かれていたボウルや泡立て器を手に取ろうと、一歩動いた瞬間。

「いい」
「えっ……」
「俺がやるから座ってろ」
「でも、片付けまでしていただくわけには……」
「ンなもん今更だわ」

 低くもはっきりとした声に振り返ると、ギルフォードがもうすぐそばまで来ていて、リアの手から器具を軽く奪い取った。
 彼は一度もリアの目を見ないまま、蛇口の前に立ち、水の音とともに食器を洗い始める。

 その背中を、リアはただ静かに見つめていた。
 指の動きが丁寧で、器具の扱いも無駄がない。皿の縁を軽く拭き取る動作に、無口な几帳面さが滲んでいた。

 何気ない所作の節々に、彼の育ちが感じられる。思えば、ギルフォードのことは、まだほとんど何も知らない。強くて、寡黙で、どこか他人と距離を取っている人――そのくらいしか分からない。

 やがて洗い物が残り一枚になった頃、リアはふいに口を開いた。

「……ギルフォード様は、どこでお料理を教わったのですか?」
「あ? あー…」

 僅かに間を置いてから、彼は低く応じた。

「あのくらい、見りゃ誰でもできんだろ」
「でも……だいぶ手慣れているように見えました」

 ぎこちない笑みとともに返すと、ギルフォードは布巾で手を拭きながら、流しに背を向けた。その顔は、どこかつまらなさそうで、でも別に不機嫌というわけでもない。

「出来ねぇことがないように育てられたからな」

 なんでも無いように呟かれた言葉は、壁に投げかけられたように淡々としていたが、不思議と重く響いた。

 エルマーが言っていたことを思い出す。ギルフォードは、生まれたときから次期国王として育てられていて、自分の好き嫌いとか、自分の心にちゃんと向き合うということには無縁だったと言っていた。

「……全部、ギルフォード様は一人で出来なきゃいけないんですか?」

 リアの問いかけは、息を呑むような静けさを連れてきた。
 ギルフォードは何かを思案するように視線を落とし、それから窓の外へと向けた。雨音はもう弱くなっていて、曇った空の向こうに夕暮れの色がにじみ始めていた。

「そうだ」

 それきり、しばらく沈黙が落ちたけれど、不快ではなかった。空白を無理に埋めようとしなくてもいいような、不思議な安心がそこにはあった。

 やがて、ギルフォードがふとリアの方を向く。

「お前、家族は好きか?」

 独り言のように落とされたその言葉に、リアは一瞬だけ目を見開いた。

 彼の瞳は、答えを急いてはいなくて、ただ答えを確かめたかっただけのようにも思えた。
 リアはゆっくりと、視線を自分の手のひらに落とす。アイザックとテオの笑顔や、レオンハルトの仏頂面、エルマーの冗談まじりの諦め顔。そんなものが、ふと胸に浮かんできた。

「……はい。好きです」

 短いけれど、迷いのない答えだった。
 ギルフォードは、それに何も言わず、しばらく視線を留めたあと、僅かに口の端を引いた。

「いいことだな」
「はい」

 それは本当に微かな、けれど確かにあたたかみのある笑みだった。

 皿洗いが終わり、静けさが戻った調理室には、雨の余韻のような余白が残っていた。
 水気を払った布巾を片手に、ギルフォードは一度窓の外に視線を流してから、ふとリアの方へ目を戻す。

「こんなふうに竜族の里で過ごすの、怖くねぇのかよ」

 ぶっきらぼうな声だった。唐突に放たれたその問いに、リアは一瞬きょとんとした顔で見返した。
 ギルフォードの表情はいつもと変わらず無愛想に見えるけれど、その赤い瞳の奥に宿る真剣さは、誤魔化しようがなかった。
 そして、彼の指先がほんの僅かに布巾を握る力を強めたのを、リアは視界に捉えた。

 言葉の裏に何があるのか――リアはもちろん、彼自身も、それに気づいていないのかもしれない。
 リアは一拍置き、それからゆっくりと頷いて口を開いた。

「……最初は、怖かったです」

 その声は柔らかく、でも隠しごとのない率直さがあった。

「生贄として向かえって言われて……竜に喰われるのだと、本気で思っていました。なのに里に着いたら、今度は結婚相手だって言われて……何がどうなってるのかと」

 苦笑まじりに目を伏せるリアの表情に、嘘はなかった。
 村を離れ、知らない場所で、竜族たちに囲まれた日々。最初の不安、恐怖、混乱。それをなかったことにはせず、ちゃんと受け止めている姿勢が、ギルフォードの胸の奥を僅かに震わせた。

「でも、今は違います」

 リアは顔を上げ、ギルフォードの瞳をまっすぐに見つめた。

「エルも、レオも……そしてギルフォード様も。皆さんが、私をこの里にいていいって思わせてくれるんです」

 その言葉に、ギルフォードの指が小さく動いた。

「最初は、ただ怖いばかりだったけど……今は、もっとこの里の役に立てたらって、そう思う気持ちのほうが強くて。怖さを忘れたわけじゃないけど、でもそれ以上に、大切に思えるものが出来てきたんです」

 リアの声には、揺るぎない信頼と、ほんの少しの誇らしさが滲んでいた。
 竜の声を聞く力に戸惑いながらも、アルバンを守った。竜族が集まった宴では、誰より自然に笑っていた――そんな彼女の姿が、ギルフォードの脳裏に蘇る。

 ただ生贄として受け入れたはずの存在が、今やこの里の空気を少し柔らかくしている。
 ギルフォードは少しだけ顔を背けるようにして、壁の方を見た。

「そうかよ」

 低く押し殺したような声だったが、そこには確かな安堵が滲んでいた。

「すみません、話し過ぎちゃいましたね」
「いや。食堂行くぞ」
「はい」

 リアの言葉が、彼の中の何かをそっと解いた。責任とか義務とか、そんなものでは割り切れない何かを、確かに認めさせるような――そんな力があった。

 まだ、自分の感情に名前をつけることはできない。
 けれどこの娘が、“怖くない”と笑ってくれることが、ひどく嬉しいと思ってしまう。
 それが、自分にとって何を意味するのか。ギルフォードは、その答えをまだ知らないままでいた。



 ギルフォードは、自分が彼女をこの屋敷に迎え入れた理由を、ずっと義務だと思っていた。
 竜王の血を引く身として、王命を拒むことはできない。ましてや彼女が、誤解とすり替えの果てに、生贄となるつもりで送られてきたと知ったとき――若干の内心の動揺を感じながらも、定められた責務としてその事実を受け入れた。

 彼女に竜族の作法や言葉を教えたのも、里で過ごす上での安全を整えたのも、あくまでこの場で混乱を起こさせないためだった。
 人間として、異物として、里の空気を乱さぬよう適応させるための配慮――そのはずだった。

 だが気づけば、リアはただ受け身でそこにいる存在ではなくなっていた。
 臆せず周囲に言葉をかけ、料理を振る舞い、何度も遠慮がちに手を差し伸べる。誰にも強制されることなく、自分の場所を見つけようとしていた。竜型のアルバンの声を聞き、守るために身体を張った。宴の席では、子どもたちと手遊びをし、ルナルディでさえを笑わせていた。

 その姿を、ギルフォードはずっと見ていた。
 無関心を装い、無表情のままで、誰にも悟られぬように。

 最初に抱いていた距離感は、もはや役に立たなかった。
 ただの人間――そう思っていたはずの娘が、いつの間にか信頼できる誰かに変わっていくのを感じていた。頼もしさすら感じるときがある。
 己を飾らず、いつも真っ直ぐで、なのにどこか儚げで、一人でなんでも背負おうとする強がりなところも。

 リアが自分にぎこちなくも笑いかけるとき、どうしてこんなにも胸が痛むのか。守らなければと思うのは、責任だからなのか。
 ギルフォードは、その答えを知らない。

 竜王として生まれた者は、感情より先に役割を与えられる。喜びも、怒りも、恐れも、いつだって表には出すなと教育係から教えられて育った。
 他者を想い、誰かを必要とするような感情は、幼いころに捨て置いてきた。

 それなのに、リアの声ひとつで、表情ひとつで、いつも心が僅かに揺れる。
 この感情に名前をつけることを、今はまだ知らなくても――それでもリアの存在が、自分の世界を確かに変え始めていることだけは、否応なく理解していた。
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