1 / 83
第1話 婚約破棄編 約束の破綻
しおりを挟む
「ねえ、アイラ」
名前を呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは、きらきらと光を振りまく私の婚約者。オリバー王子、その人だ。ミルクティー色の髪は窓から差し込む陽の光を吸い込んで、それ自体が光源みたいに輝いている。空の色をそのまま閉じ込めたような青い瞳が優しく私を映す。
「どうしたの、オリバー」
私は読みかけの詩集から顔を上げて、できるだけ穏やかに微笑んでみせた。公爵令嬢アイラとしての完璧な微笑み。内心では、彼のその輝きが少しだけ眩しすぎて目を細めていたけれど。
「今日の君も、いつも通り綺麗だ!」
「ありがとう、オリバー。あなたも、いつも通り素敵よ」
いつも通り。そう、私たちの毎日はいつも通りで構成されていた。決められた時間に顔を合わせ、当たり障りのない会話を交わし庭園を散歩する。それはまるで、丁寧に織られた上質なタペストリーのようで、寸分の狂いもなく、ただただ穏やかに続いていく。退屈、と言ってしまえばそれまでだけど、波風の立たない日々は、それなりに快適だった。
この国で二番目に権力を持つ公爵家の娘である私と、次期国王であるオリバーとの婚約は、物心ついた頃には決まっていた。政略結婚。古い言葉だけど、私たちの間にあるものを表すのに、それ以上にしっくりくる言葉を私は知らない。
でも、彼が私を嫌っているわけではないことも私は知っていた。彼が向ける綺麗だね! という言葉に嘘はないのだろう。ただ、それは道端に咲く花を愛でるような、あるいは磨かれた宝玉を美しいと感じるような、そんな種類の感情なのだということも。そこに、私という個人の意思が入り込む隙間はきっとない。
彼にとって私は、公爵令嬢アイラという名の、穏やかで美しい婚約者という役割を果たす存在。それで、十分だった。私も、それでいいと思っていた。この穏やかな日々が、決められた未来まで続くのなら。
そう、思っていた。あの日までは。
その日、約束の時間に現れたオリバーは、いつものきらきらした光をどこかに置き忘れてきたみたいに、ひどい顔をしていた。ミルクティー色の髪は乱れ、青い瞳は泣き腫らして赤く染まっている。まるで、世界の終わりでも見てきたかのような、そんな絶望を全身で体現していた。
「……オリバー? どうしたの、その顔」
彼は私の問いに答える代わりに、テーブルに突っ伏して、子供のようにわんわんと泣き始めた。震える肩は、見ているこちらが不安になるくらい頼りない。私はとりあえず、メイドに温かいお茶を用意するように言いつけて、彼の背中を優しく撫でた。彼に何が起こったのか? 皆目見当もつかない。
「アイラ……っ、すまない……」
しゃくりあげながら、彼が絞り出した言葉はそれだけだった。何が、とは言わない。ただ、彼の全身からごめん……という感情が溢れ出しているのが分かった。
しばらくして、ようやく少し落ち着いたのか、彼は濡れた瞳で私を見上げた。その瞳に映る私は、きっと困惑した顔をしていたに違いない。
「ローズが……僕の、幼馴染のローズが……」
ローズ。その名前は、私も聞いたことがあった。確か、オリバーが幼い頃に一緒に遊んだという、男爵家の令嬢。体が弱くて、王宮の行事にもほとんど顔を出さないと聞いている。
「ローズ嬢が、どうかしたの?」
「……余命、一年、なんだ」
彼の口から放たれた言葉は、静かな温室の空気を一瞬で凍てつかせた。余命、一年。それは、物語の中でしか聞いたことのない、ひどく現実味のない響きを持っていた。
名前を呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは、きらきらと光を振りまく私の婚約者。オリバー王子、その人だ。ミルクティー色の髪は窓から差し込む陽の光を吸い込んで、それ自体が光源みたいに輝いている。空の色をそのまま閉じ込めたような青い瞳が優しく私を映す。
「どうしたの、オリバー」
私は読みかけの詩集から顔を上げて、できるだけ穏やかに微笑んでみせた。公爵令嬢アイラとしての完璧な微笑み。内心では、彼のその輝きが少しだけ眩しすぎて目を細めていたけれど。
「今日の君も、いつも通り綺麗だ!」
「ありがとう、オリバー。あなたも、いつも通り素敵よ」
いつも通り。そう、私たちの毎日はいつも通りで構成されていた。決められた時間に顔を合わせ、当たり障りのない会話を交わし庭園を散歩する。それはまるで、丁寧に織られた上質なタペストリーのようで、寸分の狂いもなく、ただただ穏やかに続いていく。退屈、と言ってしまえばそれまでだけど、波風の立たない日々は、それなりに快適だった。
この国で二番目に権力を持つ公爵家の娘である私と、次期国王であるオリバーとの婚約は、物心ついた頃には決まっていた。政略結婚。古い言葉だけど、私たちの間にあるものを表すのに、それ以上にしっくりくる言葉を私は知らない。
でも、彼が私を嫌っているわけではないことも私は知っていた。彼が向ける綺麗だね! という言葉に嘘はないのだろう。ただ、それは道端に咲く花を愛でるような、あるいは磨かれた宝玉を美しいと感じるような、そんな種類の感情なのだということも。そこに、私という個人の意思が入り込む隙間はきっとない。
彼にとって私は、公爵令嬢アイラという名の、穏やかで美しい婚約者という役割を果たす存在。それで、十分だった。私も、それでいいと思っていた。この穏やかな日々が、決められた未来まで続くのなら。
そう、思っていた。あの日までは。
その日、約束の時間に現れたオリバーは、いつものきらきらした光をどこかに置き忘れてきたみたいに、ひどい顔をしていた。ミルクティー色の髪は乱れ、青い瞳は泣き腫らして赤く染まっている。まるで、世界の終わりでも見てきたかのような、そんな絶望を全身で体現していた。
「……オリバー? どうしたの、その顔」
彼は私の問いに答える代わりに、テーブルに突っ伏して、子供のようにわんわんと泣き始めた。震える肩は、見ているこちらが不安になるくらい頼りない。私はとりあえず、メイドに温かいお茶を用意するように言いつけて、彼の背中を優しく撫でた。彼に何が起こったのか? 皆目見当もつかない。
「アイラ……っ、すまない……」
しゃくりあげながら、彼が絞り出した言葉はそれだけだった。何が、とは言わない。ただ、彼の全身からごめん……という感情が溢れ出しているのが分かった。
しばらくして、ようやく少し落ち着いたのか、彼は濡れた瞳で私を見上げた。その瞳に映る私は、きっと困惑した顔をしていたに違いない。
「ローズが……僕の、幼馴染のローズが……」
ローズ。その名前は、私も聞いたことがあった。確か、オリバーが幼い頃に一緒に遊んだという、男爵家の令嬢。体が弱くて、王宮の行事にもほとんど顔を出さないと聞いている。
「ローズ嬢が、どうかしたの?」
「……余命、一年、なんだ」
彼の口から放たれた言葉は、静かな温室の空気を一瞬で凍てつかせた。余命、一年。それは、物語の中でしか聞いたことのない、ひどく現実味のない響きを持っていた。
1,344
あなたにおすすめの小説
「誰もお前なんか愛さない」と笑われたけど、隣国の王が即プロポーズしてきました
ゆっこ
恋愛
「アンナ・リヴィエール、貴様との婚約は、今日をもって破棄する!」
王城の大広間に響いた声を、私は冷静に見つめていた。
誰よりも愛していた婚約者、レオンハルト王太子が、冷たい笑みを浮かべて私を断罪する。
「お前は地味で、つまらなくて、礼儀ばかりの女だ。華もない。……誰もお前なんか愛さないさ」
笑い声が響く。
取り巻きの令嬢たちが、まるで待っていたかのように口元を隠して嘲笑した。
胸が痛んだ。
けれど涙は出なかった。もう、心が乾いていたからだ。
捨てた私をもう一度拾うおつもりですか?
ミィタソ
恋愛
「みんな聞いてくれ! 今日をもって、エルザ・ローグアシュタルとの婚約を破棄する! そして、その妹——アイリス・ローグアシュタルと正式に婚約することを決めた! 今日という祝いの日に、みんなに伝えることができ、嬉しく思う……」
ローグアシュタル公爵家の長女――エルザは、マクーン・ザルカンド王子の誕生日記念パーティーで婚約破棄を言い渡される。
それどころか、王子の横には舌を出して笑うエルザの妹――アイリスの姿が。
傷心を癒すため、父親の勧めで隣国へ行くのだが……
婚約破棄にはなりました。が、それはあなたの「ため」じゃなく、あなたの「せい」です。
百谷シカ
恋愛
「君がふしだらなせいだろう。当然、この婚約は破棄させてもらう」
私はシェルヴェン伯爵令嬢ルート・ユングクヴィスト。
この通りリンドホルム伯爵エドガー・メシュヴィツに婚約破棄された。
でも、決して私はふしだらなんかじゃない。
濡れ衣だ。
私はある人物につきまとわれている。
イスフェルト侯爵令息フィリップ・ビルト。
彼は私に一方的な好意を寄せ、この半年、あらゆる接触をしてきた。
「君と出会い、恋に落ちた。これは運命だ! 君もそう思うよね?」
「おやめください。私には婚約者がいます……!」
「関係ない! その男じゃなく、僕こそが君の愛すべき人だよ!」
愛していると、彼は言う。
これは運命なんだと、彼は言う。
そして運命は、私の未来を破壊した。
「さあ! 今こそ結婚しよう!!」
「いや……っ!!」
誰も助けてくれない。
父と兄はフィリップ卿から逃れるため、私を修道院に入れると決めた。
そんなある日。
思いがけない求婚が舞い込んでくる。
「便宜上の結婚だ。私の妻となれば、奴も手出しできないだろう」
ランデル公爵ゴトフリート閣下。
彼は愛情も跡継ぎも求めず、ただ人助けのために私を妻にした。
これは形だけの結婚に、ゆっくりと愛が育まれていく物語。
婚約破棄された令嬢のささやかな幸福
香木陽灯
恋愛
田舎の伯爵令嬢アリシア・ローデンには婚約者がいた。
しかし婚約者とアリシアの妹が不貞を働き、子を身ごもったのだという。
「結婚は家同士の繋がり。二人が結ばれるなら私は身を引きましょう。どうぞお幸せに」
婚約破棄されたアリシアは潔く身を引くことにした。
婚約破棄という烙印が押された以上、もう結婚は出来ない。
ならば一人で生きていくだけ。
アリシアは王都の外れにある小さな家を買い、そこで暮らし始める。
「あぁ、最高……ここなら一人で自由に暮らせるわ!」
初めての一人暮らしを満喫するアリシア。
趣味だった刺繍で生計が立てられるようになった頃……。
「アリシア、頼むから戻って来てくれ! 俺と結婚してくれ……!」
何故か元婚約者がやってきて頭を下げたのだ。
しかし丁重にお断りした翌日、
「お姉様、お願いだから戻ってきてください! あいつの相手はお姉様じゃなきゃ無理です……!」
妹までもがやってくる始末。
しかしアリシアは微笑んで首を横に振るばかり。
「私はもう結婚する気も家に戻る気もありませんの。どうぞお幸せに」
家族や婚約者は知らないことだったが、実はアリシアは幸せな生活を送っていたのだった。
【完結】婚約者と養い親に不要といわれたので、幼馴染の側近と国を出ます
衿乃 光希
恋愛
卒業パーティーの最中、婚約者から突然婚約破棄を告げられたシェリーヌ。
婚約者の心を留めておけないような娘はいらないと、養父からも不要と言われる。
シェリーヌは16年過ごした国を出る。
生まれた時からの側近アランと一緒に・・・。
第18回恋愛小説大賞エントリーしましたので、第2部を執筆中です。
第2部祖国から手紙が届き、養父の体調がすぐれないことを知らされる。迷いながらも一時戻ってきたシェリーヌ。見舞った翌日、養父は天に召された。葬儀後、貴族の死去が相次いでいるという不穏な噂を耳にする。恋愛小説大賞は51位で終了しました。皆さま、投票ありがとうございました。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
双子の姉に聴覚を奪われました。
浅見
恋愛
『あなたが馬鹿なお人よしで本当によかった!』
双子の王女エリシアは、姉ディアナに騙されて聴覚を失い、塔に幽閉されてしまう。
さらに皇太子との婚約も破棄され、あらたな婚約者には姉が選ばれた――はずなのに。
三年後、エリシアを迎えに現れたのは、他ならぬ皇太子その人だった。
「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?
ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」
王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。
そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。
周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。
「理由は……何でしょうか?」
私は静かに問う。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる