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第47話
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「ママ、お腹すいた!」
その時、クロエが、甲高い子供らしい声で叫んだ。
「パンに、バターをいっぱい塗ってくれるって、さっき言ったじゃない!」
その、あまりにも無邪気な叫びにブラッドは一瞬、虚を突かれたように混乱した表情を浮かべた。セリーヌは、その千載一遇の好機を逃さなかった。
「ええ、そうだったわね。ごめんなさい、クロエ。さあ、厨房へ行きましょう」
セリーヌは、ブラッドの横をすり抜けるようにして階段を上がろうとした。しかし、その腕が鉄の枷のように強く掴まれた。振り向くと、ブラッドの目は酔いのせいか、どこかぼんやりとしていたが、その手の力だけは弱くはなかった。
「なにか?」
「……小腹がすいた。俺のも作ってくれ」
ブラッドの声はアルコールで濁り、耳にこびりつくようだった。脱出計画は、あまりにもあっけなく、あっという間に失敗に終わった。セリーヌはその場に立ち尽くし、目の前にある無力感を感じるしかなかった。
ブラッドは、妻子の腕を掴んだまま引きずるようにして食堂へと歩き出した。その力強い手のひらに、セリーヌは自分の未来を握られているような気がした。クロエの顔には不安の色が広がり、セリーヌの胸も苦しくなったが何も言えなかった。
その一方で、この出来事はブラッドに、決定的な疑念の種を植え付けることとなった。
(セリーヌが俺から逃げようとしている)
その事実が、彼の内にひそむ歪んだ欲望をさらに強く呼び覚ますこととなり、次第に彼の支配欲は止め処なく膨れ上がっていった。日々、その欲望が彼の思考を支配し、他者を支配しようとする衝動が凄まじいことが彼自身にも分かっていた。
脱出に失敗したあの日から、ブラッドの監視は病的なまでに執拗になった。セリーヌとクロエが、部屋から一歩でも出ようものなら、必ず見張りの兵士が無言でその前に立ちはだかった。母と子どもにとって屋敷は牢獄そのものだった。
そして、ブラッドの心は、日々荒んでいった。その原因の大きな部分を占めていたのは、クロエの激しい反発だった。どんなに手を尽くしても、彼の愛情が届くことはなかった。
ある日、ブラッドは少しでも父親らしさを見せようと、森の中で滅多に見かけない美しい花を摘んできた。その花束を差し出しながら、心からの期待を込めて言った。
「クロエ、ほら、見てみろ。お前のために、森で珍しい花を摘んできたんだぞ」
けれど、クロエはその花をちらりとも見なかった。それどころか、ブラッドのことを汚いものでも見るかのように顔をそむけるだけだった。その無関心な態度に、彼の心は苦しみに満ち焦燥感が膨らんだ。
「俺が、クロエのために……」
「そんなゴミいらない」
「え? こんなに、綺麗なのに!?」
クロエの身もフタもない言い方が、ブラッドの胸を強く打つような感覚が広がった。その冷たい言葉は、彼がこれまで受けたどんな言葉よりも痛みが強かった。思わず声を荒げて心は動揺し、理解できない思いが募るばかりだった。
「どうして、わからないの? あなたからのものなんて、何もいらないの!」
クロエの言葉は無慈悲で、ブラッドの心を無理に引き裂くように響いた。彼はその言葉の意味を受け入れられず、ただ目の前にいる娘が、自分の愛情を受け入れることなく拒絶する姿に愕然としていた。
「クロエ、今日はどうしたんだ? なんだか、いつもと違うみたいだな」
ブラッドは声をかけ、なんとか状況を理解しようとした。彼の知ってるクロエは、素直で可愛らしい反応を見せるのに、今日は冷たい印象を与えている。まるで別人のように感じられて、心の中に不安が芽生えていった。
「汚いから、触らないで!」
ブラッドが腕に触れたその瞬間、クロエの声には明らかな憎しみが含まれていた。それが彼の胸に深く響き、言葉にできないほどの悲しみが広がった。どれだけ娘に自分の愛情を注いでも、それが届かない悲しみが彼を覆い尽くしていった。
その時、クロエが、甲高い子供らしい声で叫んだ。
「パンに、バターをいっぱい塗ってくれるって、さっき言ったじゃない!」
その、あまりにも無邪気な叫びにブラッドは一瞬、虚を突かれたように混乱した表情を浮かべた。セリーヌは、その千載一遇の好機を逃さなかった。
「ええ、そうだったわね。ごめんなさい、クロエ。さあ、厨房へ行きましょう」
セリーヌは、ブラッドの横をすり抜けるようにして階段を上がろうとした。しかし、その腕が鉄の枷のように強く掴まれた。振り向くと、ブラッドの目は酔いのせいか、どこかぼんやりとしていたが、その手の力だけは弱くはなかった。
「なにか?」
「……小腹がすいた。俺のも作ってくれ」
ブラッドの声はアルコールで濁り、耳にこびりつくようだった。脱出計画は、あまりにもあっけなく、あっという間に失敗に終わった。セリーヌはその場に立ち尽くし、目の前にある無力感を感じるしかなかった。
ブラッドは、妻子の腕を掴んだまま引きずるようにして食堂へと歩き出した。その力強い手のひらに、セリーヌは自分の未来を握られているような気がした。クロエの顔には不安の色が広がり、セリーヌの胸も苦しくなったが何も言えなかった。
その一方で、この出来事はブラッドに、決定的な疑念の種を植え付けることとなった。
(セリーヌが俺から逃げようとしている)
その事実が、彼の内にひそむ歪んだ欲望をさらに強く呼び覚ますこととなり、次第に彼の支配欲は止め処なく膨れ上がっていった。日々、その欲望が彼の思考を支配し、他者を支配しようとする衝動が凄まじいことが彼自身にも分かっていた。
脱出に失敗したあの日から、ブラッドの監視は病的なまでに執拗になった。セリーヌとクロエが、部屋から一歩でも出ようものなら、必ず見張りの兵士が無言でその前に立ちはだかった。母と子どもにとって屋敷は牢獄そのものだった。
そして、ブラッドの心は、日々荒んでいった。その原因の大きな部分を占めていたのは、クロエの激しい反発だった。どんなに手を尽くしても、彼の愛情が届くことはなかった。
ある日、ブラッドは少しでも父親らしさを見せようと、森の中で滅多に見かけない美しい花を摘んできた。その花束を差し出しながら、心からの期待を込めて言った。
「クロエ、ほら、見てみろ。お前のために、森で珍しい花を摘んできたんだぞ」
けれど、クロエはその花をちらりとも見なかった。それどころか、ブラッドのことを汚いものでも見るかのように顔をそむけるだけだった。その無関心な態度に、彼の心は苦しみに満ち焦燥感が膨らんだ。
「俺が、クロエのために……」
「そんなゴミいらない」
「え? こんなに、綺麗なのに!?」
クロエの身もフタもない言い方が、ブラッドの胸を強く打つような感覚が広がった。その冷たい言葉は、彼がこれまで受けたどんな言葉よりも痛みが強かった。思わず声を荒げて心は動揺し、理解できない思いが募るばかりだった。
「どうして、わからないの? あなたからのものなんて、何もいらないの!」
クロエの言葉は無慈悲で、ブラッドの心を無理に引き裂くように響いた。彼はその言葉の意味を受け入れられず、ただ目の前にいる娘が、自分の愛情を受け入れることなく拒絶する姿に愕然としていた。
「クロエ、今日はどうしたんだ? なんだか、いつもと違うみたいだな」
ブラッドは声をかけ、なんとか状況を理解しようとした。彼の知ってるクロエは、素直で可愛らしい反応を見せるのに、今日は冷たい印象を与えている。まるで別人のように感じられて、心の中に不安が芽生えていった。
「汚いから、触らないで!」
ブラッドが腕に触れたその瞬間、クロエの声には明らかな憎しみが含まれていた。それが彼の胸に深く響き、言葉にできないほどの悲しみが広がった。どれだけ娘に自分の愛情を注いでも、それが届かない悲しみが彼を覆い尽くしていった。
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