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小川正平編
第11話 褒められる年齢ではない[4]
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――止まった理由は、分かっている。
その先を言うと、矛盾が出るからだ。
しのは待つ。
待ち方が、うまい。
急がせないのに、逃がさない。
正平は、息を吐いて続けた。
「……ただ、最近。褒められないことより、“褒められる場にいない”感じが、気になる時がある」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
言ったら終わり、みたいな気持ちになる。
若い頃の自分が聞いたら、笑うかもしれない。
しのは否定しない。
驚きもしない。
メモ帳に何かを書き始めた。
それが、妙にありがたい。
「これは記録されるに値する話なんだ」と言われた気がしたからだ。
「小川さんは、今も現場に立っていますか」
しのが初めて、質問らしい質問をした。
「立ってます」
「手を動かしますか」
「……動かします」
「自分が見て、手を出す仕事と、若い人に任せる仕事。差はありますか」
正平は、その問いに一瞬だけ笑いそうになった。
いや、笑いではない。
驚きに近い。
「……ありますよ。そりゃ」
「どんな差ですか」
「若いのは……勢いがある。飲み込みも早い。でも、機械ってのは、勢いだけじゃ動かない」
言いながら、正平は自分が「教える」口調になっていることに気づいた。
いつも通りだ。
工場で新人に説明する時と同じ。
「機械が嫌がる音、ってのがある。刃が逃げる瞬間とか。金属が噛む手前とか。そういうのは、経験でしか分からない」
「小川さんは、それが分かる」
「……まあ」
「分かることを、誇りますか」
その質問は、少しだけ刺さった。
誇る、という言葉が、正平の中で軽く跳ねた。
「誇りません」
即答だった。
「誇るようなもんじゃない。できて当たり前です」
しのは頷いた。
その頷きは、肯定というより理解に近い。
「誇らない。教えない。求められたら答える。……小川さんは、そういう働き方を長く続けてきた」
正平は、息が止まりそうになった。
自分が言ったことを、そのまま並べられただけだ。
なのに、輪郭ができる。
「自分」というものが、外から見える。
「……あんた、よく聞いてますね」
思わず言うと、しのは少しだけ目を細めた。笑ったわけではない。
「仕事なので」
淡々とした返し。
だが、その“仕事”が、今はありがたい。
「小川さん」
しのはペンを止めた。
紙の上に残った文字が見えない位置に、メモ帳が置かれている。
「確認させてください。褒めてほしいわけではない。評価されたいわけでもない。ただ――話す場所があるのかどうかを確かめたい。そういうことで合っていますか」
正平は、ゆっくり頷いた。
「……そうです。家族には話せない。社員にも話せない。取引先にも話せない」
言いながら、言葉が自分の中で積み重なっていく。
「話したら、弱みに見える。心配される。気を遣われる。……そんなのは、面倒で」
「面倒」
しのが、また拾った。
「はい。面倒です。だから、黙ってきた。黙るのは得意です」
正平は、そこで少し笑った。
自嘲に近い笑いだ。
しのは笑わない。
ただ一言だけ言った。
「黙るのが得意な人は、“黙ることに慣れすぎる”ことがあります」
正平の笑いが、そこで止まった。
「慣れすぎると、黙ることが楽になります。楽になると、話すことが怖くなります」
胸の奥が、ぎゅっと詰まった。
――怖い。
確かに、怖い。
話すことが怖い。
弱音を言うことが怖い。
「自分がまだ欲しいものがある」と認めることが怖い。
しのは、視線を外さない。
押し付けない目だ。
だが逃がさない目でもある。
「小川さんは今日、ご自身の意思でここに来ました」
その言葉に、正平は瞬きをした。
「ここに来ることは、簡単ではありません。初めての場所に来て、知らない相手と向き合う。しかも、目的が“相談”ではない。“確かめる”ために来る。それは意外と難しいことです」
正平は、返事ができなかった。
褒められた、というより。
説明された、というより。
「今の自分の行動」に、意味が置かれた。
「……難しい、ですか」
かすれた声が出た。
「はい。小川さんは、難しい方を選んだ」
難しい方。
その言い方が、妙に胸に残った。
正平は、椅子の肘掛けに指を置いた。
皮膚が少し冷たい。
自分の手が、わずかに震えているのに気づく。
工場で震えることはない。
機械の前で震えたら危ない。
だから、震えない体を作ってきた。
なのに。
「……あんたは、褒める仕事なんですよね」
正平は、確かめるように言った。
自分でも、少し攻めた口調になったのが分かった。
だが、引っ込められない。
しのは否定せず、肯定もせずに答える。
「私は、言葉を渡します。褒めることもあります。ただ、何でも言いません。拾えることしか言いません」
「拾えること」
「事実に基づく言葉です」
正平は、その言い方が気に入った。
工場の世界と似ているからだ。
噂や気分ではなく、事実。
寸法。誤差。硬度。納期。
そこに嘘はない。
「……じゃあ、俺には、何が拾えるんですか」
自分で言ってしまってから、少しだけ後悔した。
拾えるものなんてあるのか。
六十九の男に。
しのは、すぐに答えなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、軽くない。
正平は、なぜか息を止めてしまう。
しのは、メモ帳を見ないまま言った。
「小川さんは、“褒められる年齢ではない”と言いました」
「……はい」
「それは、小川さんの価値観です。そして、その価値観を支えてきた経験があります」
経験。
正平は、頷いた。
「ただ――」
しのは、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「価値観がある、ということは、価値観に守られてきた、ということでもあります」
守られてきた。
その言い方に、正平は少しだけ眉を寄せる。
「守られる、ってのは……」
「褒められないことを“普通”にできる。評価されないことを“自然”にできる。それは、強さです。同時に、疲れます」
疲れます。
その一言が、刺さった。
その先を言うと、矛盾が出るからだ。
しのは待つ。
待ち方が、うまい。
急がせないのに、逃がさない。
正平は、息を吐いて続けた。
「……ただ、最近。褒められないことより、“褒められる場にいない”感じが、気になる時がある」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
言ったら終わり、みたいな気持ちになる。
若い頃の自分が聞いたら、笑うかもしれない。
しのは否定しない。
驚きもしない。
メモ帳に何かを書き始めた。
それが、妙にありがたい。
「これは記録されるに値する話なんだ」と言われた気がしたからだ。
「小川さんは、今も現場に立っていますか」
しのが初めて、質問らしい質問をした。
「立ってます」
「手を動かしますか」
「……動かします」
「自分が見て、手を出す仕事と、若い人に任せる仕事。差はありますか」
正平は、その問いに一瞬だけ笑いそうになった。
いや、笑いではない。
驚きに近い。
「……ありますよ。そりゃ」
「どんな差ですか」
「若いのは……勢いがある。飲み込みも早い。でも、機械ってのは、勢いだけじゃ動かない」
言いながら、正平は自分が「教える」口調になっていることに気づいた。
いつも通りだ。
工場で新人に説明する時と同じ。
「機械が嫌がる音、ってのがある。刃が逃げる瞬間とか。金属が噛む手前とか。そういうのは、経験でしか分からない」
「小川さんは、それが分かる」
「……まあ」
「分かることを、誇りますか」
その質問は、少しだけ刺さった。
誇る、という言葉が、正平の中で軽く跳ねた。
「誇りません」
即答だった。
「誇るようなもんじゃない。できて当たり前です」
しのは頷いた。
その頷きは、肯定というより理解に近い。
「誇らない。教えない。求められたら答える。……小川さんは、そういう働き方を長く続けてきた」
正平は、息が止まりそうになった。
自分が言ったことを、そのまま並べられただけだ。
なのに、輪郭ができる。
「自分」というものが、外から見える。
「……あんた、よく聞いてますね」
思わず言うと、しのは少しだけ目を細めた。笑ったわけではない。
「仕事なので」
淡々とした返し。
だが、その“仕事”が、今はありがたい。
「小川さん」
しのはペンを止めた。
紙の上に残った文字が見えない位置に、メモ帳が置かれている。
「確認させてください。褒めてほしいわけではない。評価されたいわけでもない。ただ――話す場所があるのかどうかを確かめたい。そういうことで合っていますか」
正平は、ゆっくり頷いた。
「……そうです。家族には話せない。社員にも話せない。取引先にも話せない」
言いながら、言葉が自分の中で積み重なっていく。
「話したら、弱みに見える。心配される。気を遣われる。……そんなのは、面倒で」
「面倒」
しのが、また拾った。
「はい。面倒です。だから、黙ってきた。黙るのは得意です」
正平は、そこで少し笑った。
自嘲に近い笑いだ。
しのは笑わない。
ただ一言だけ言った。
「黙るのが得意な人は、“黙ることに慣れすぎる”ことがあります」
正平の笑いが、そこで止まった。
「慣れすぎると、黙ることが楽になります。楽になると、話すことが怖くなります」
胸の奥が、ぎゅっと詰まった。
――怖い。
確かに、怖い。
話すことが怖い。
弱音を言うことが怖い。
「自分がまだ欲しいものがある」と認めることが怖い。
しのは、視線を外さない。
押し付けない目だ。
だが逃がさない目でもある。
「小川さんは今日、ご自身の意思でここに来ました」
その言葉に、正平は瞬きをした。
「ここに来ることは、簡単ではありません。初めての場所に来て、知らない相手と向き合う。しかも、目的が“相談”ではない。“確かめる”ために来る。それは意外と難しいことです」
正平は、返事ができなかった。
褒められた、というより。
説明された、というより。
「今の自分の行動」に、意味が置かれた。
「……難しい、ですか」
かすれた声が出た。
「はい。小川さんは、難しい方を選んだ」
難しい方。
その言い方が、妙に胸に残った。
正平は、椅子の肘掛けに指を置いた。
皮膚が少し冷たい。
自分の手が、わずかに震えているのに気づく。
工場で震えることはない。
機械の前で震えたら危ない。
だから、震えない体を作ってきた。
なのに。
「……あんたは、褒める仕事なんですよね」
正平は、確かめるように言った。
自分でも、少し攻めた口調になったのが分かった。
だが、引っ込められない。
しのは否定せず、肯定もせずに答える。
「私は、言葉を渡します。褒めることもあります。ただ、何でも言いません。拾えることしか言いません」
「拾えること」
「事実に基づく言葉です」
正平は、その言い方が気に入った。
工場の世界と似ているからだ。
噂や気分ではなく、事実。
寸法。誤差。硬度。納期。
そこに嘘はない。
「……じゃあ、俺には、何が拾えるんですか」
自分で言ってしまってから、少しだけ後悔した。
拾えるものなんてあるのか。
六十九の男に。
しのは、すぐに答えなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、軽くない。
正平は、なぜか息を止めてしまう。
しのは、メモ帳を見ないまま言った。
「小川さんは、“褒められる年齢ではない”と言いました」
「……はい」
「それは、小川さんの価値観です。そして、その価値観を支えてきた経験があります」
経験。
正平は、頷いた。
「ただ――」
しのは、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「価値観がある、ということは、価値観に守られてきた、ということでもあります」
守られてきた。
その言い方に、正平は少しだけ眉を寄せる。
「守られる、ってのは……」
「褒められないことを“普通”にできる。評価されないことを“自然”にできる。それは、強さです。同時に、疲れます」
疲れます。
その一言が、刺さった。
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