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小川正平編
第12話 褒められる年齢ではない[5]
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――疲れている。
確かに疲れている。
だが、それを「疲れ」と呼ぶのは、どこか反則みたいだ。
疲れは若者のものだ。
自分は疲れを言い訳にできない。
そうやって生きてきた。
しのは、正平の反応を見て、言葉を足す。
「小川さんは、疲れを“疲れ”として扱ってこなかった。扱わないことで、守ってきた」
正平は、喉が鳴った。
言い返せない。
図星、というより。
自分でも知らない角度から、事実を置かれた感覚。
しのは、ペンを持つ。
メモ帳に何かを書き、そしてペンを置いた。
そこから、少しだけ声のトーンが変わる。
熱が入るのではない。
丁寧さが増す。
「小川さん。今から、ひとつだけ言葉を渡します」
正平は、背筋が伸びた。
まるで検査結果を聞くみたいに。
「その言葉は褒めに見えるかもしれません。ただ、事実です。受け取る必要はありません。忘れても構いません」
受け取る必要はない。
その許可が、ありがたい。
しのは、まっすぐ言った。
「小川さんは、六十九歳まで、仕事を続けてきました」
正平は瞬きをした。
当たり前だ。
続けてきた。
それがどうした。
反射的に、そう思った。
なのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
しのは、続ける。
「同じ場所に立ち続けることは、簡単ではありません」
正平の呼吸が、少し乱れた。
同じ場所に立つ。
立ち続ける。
簡単ではない。
誰かにそう言われた記憶が、ほとんどない。
むしろ、立てなくなることだけが問題になる。
立てるうちは、当たり前だ。
なのに。
「……それだけ、ですか」
声が、思ったより弱かった。
自分でも驚く。
もっと突っ張るつもりだった。
しのは頷いた。
「はい。それだけです。それ以上は言いません」
あっさりしている。
あまりにも。
だが、その“あっさり”が、正平には効いた。
余計な言葉がない。
持ち上げない。
感動させない。
「すごいですね」と言わない。
「尊敬します」とも言わない。
ただ、事実を置く。
それは、工場の世界の言葉と似ていた。
寸法が合っている。
それだけで、製品は成立する。
そこに感想はいらない。
正平は、しばらく黙っていた。
目の奥が熱い。
泣くつもりはない。
泣いたら、自分が崩れる気がする。
だが、崩れそうなのは事実だった。
「……続けるってのは」
やっと、声が出る。
「俺は、続けてるつもりは……ないんです。やることがあるからやってるだけで」
しのは、その言葉を否定しない。
「やることがあるからやる。その積み重ねが、続ける、です」
「……」
正平は、苦笑した。
言葉遊びみたいだ。
でも、違う。
遊びじゃない。
定義の置き換えだ。
「……褒められる年齢じゃないって、俺が言ったのは」
正平は、机の端を見た。
視線を合わせると、喉が詰まる気がした。
「……褒められると、困るからかもしれませんね」
言ってしまった。
自分でも予想していなかった言葉だった。
しのは、目を細める。
驚いたのではない。
「その言葉が出た」ことを見届ける目だ。
「困る、とは」
「……返し方が分からない。今さら褒められても……どうしたらいいか」
正平は、吐き出すように言った。
「若い人なら、ありがとうございます、で済む。でも、俺が言われると……何か、取り返しがつかない気がする」
「取り返しがつかない」
しのは、また拾う。
拾って、繋げる。
「褒められた瞬間に、終わる感じがしますか」
正平は、ゆっくり頷いた。
「……そうかもしれません」
終わる。
終わる感じ。
それは、取引先の若い担当者に言われた時に感じたものと同じだ。
「この工場はあなたが作ったんですね」
――終わった話にされた気がした。
しのは言う。
「小川さんが怖いのは、褒めではなく、“褒めが終わりの合図になること”かもしれません」
正平は、息を吸った。
その通りだ。
「……じゃあ、俺は」
言葉が続かない。
続けたら、弱音になる。
しのは、無理に続きを聞かない。
ただ、淡々と告げる。
「今日は、ここまでで十分です」
十分。
その言葉が、正平を救った。
“結論を出さなくていい”という許可だった。
時計を見ると、一時間が終わりに近づいている。
しのが、最後に確認するように言った。
「小川さん。今日渡した言葉は信じなくて構いません。覚えていなくてもいい。ただ、もし少しだけ残ったら、それで十分です」
正平は、頷いた。
頷くしかなかった。
「……また来るかどうかは」
自分でも分からない。
だが、言っておきたくなった。
「考えます」
しのは、そこで初めて、ほんの少し口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
だが、部屋の空気が一段柔らかくなる。
「はい。必要だと思ったら」
それだけ。
最後まで、余計なことを言わない。
引き留めもしない。
押し付けもしない。
正平は椅子から立ち上がった。
足が、少しだけ重い。
だが、倒れるような重さではない。
工場で重い材料を運ぶ時の重さとも違う。
――胸の奥が、重い。
それなのに、息がしやすい。
矛盾している。
だが、今日は矛盾のままでいい気がした。
扉の前で、正平は一度だけ振り返った。
しのは、机の上のメモ帳を閉じ、ペンを揃えている。
こちらを見送る目は、相変わらず静かだ。
遠いのに、見ている。
正平は言った。
「……ありがとうございました」
礼儀としての言葉だ。
だが、礼儀だけではなかった。
しのは頷いた。
「こちらこそ。お越しいただいて」
その一言で、セッションは終わった。
余韻を、ここに置いたまま。
持ち帰るのは、こちらだと言わんばかりに。
正平はドアノブに手をかけ、部屋を出た。
階段の踊り場で、足が止まりそうになる。
だが止めない。
止めたら、さっきの言葉がこぼれてしまう気がした。
六十九歳まで、仕事を続けてきた。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥に残っている。
まるで、長年触れてきた鉄の冷たさとは別の、
言葉の重さが沈んでいくみたいに。
正平は、何も言わずに階段を下りた。
確かに疲れている。
だが、それを「疲れ」と呼ぶのは、どこか反則みたいだ。
疲れは若者のものだ。
自分は疲れを言い訳にできない。
そうやって生きてきた。
しのは、正平の反応を見て、言葉を足す。
「小川さんは、疲れを“疲れ”として扱ってこなかった。扱わないことで、守ってきた」
正平は、喉が鳴った。
言い返せない。
図星、というより。
自分でも知らない角度から、事実を置かれた感覚。
しのは、ペンを持つ。
メモ帳に何かを書き、そしてペンを置いた。
そこから、少しだけ声のトーンが変わる。
熱が入るのではない。
丁寧さが増す。
「小川さん。今から、ひとつだけ言葉を渡します」
正平は、背筋が伸びた。
まるで検査結果を聞くみたいに。
「その言葉は褒めに見えるかもしれません。ただ、事実です。受け取る必要はありません。忘れても構いません」
受け取る必要はない。
その許可が、ありがたい。
しのは、まっすぐ言った。
「小川さんは、六十九歳まで、仕事を続けてきました」
正平は瞬きをした。
当たり前だ。
続けてきた。
それがどうした。
反射的に、そう思った。
なのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
しのは、続ける。
「同じ場所に立ち続けることは、簡単ではありません」
正平の呼吸が、少し乱れた。
同じ場所に立つ。
立ち続ける。
簡単ではない。
誰かにそう言われた記憶が、ほとんどない。
むしろ、立てなくなることだけが問題になる。
立てるうちは、当たり前だ。
なのに。
「……それだけ、ですか」
声が、思ったより弱かった。
自分でも驚く。
もっと突っ張るつもりだった。
しのは頷いた。
「はい。それだけです。それ以上は言いません」
あっさりしている。
あまりにも。
だが、その“あっさり”が、正平には効いた。
余計な言葉がない。
持ち上げない。
感動させない。
「すごいですね」と言わない。
「尊敬します」とも言わない。
ただ、事実を置く。
それは、工場の世界の言葉と似ていた。
寸法が合っている。
それだけで、製品は成立する。
そこに感想はいらない。
正平は、しばらく黙っていた。
目の奥が熱い。
泣くつもりはない。
泣いたら、自分が崩れる気がする。
だが、崩れそうなのは事実だった。
「……続けるってのは」
やっと、声が出る。
「俺は、続けてるつもりは……ないんです。やることがあるからやってるだけで」
しのは、その言葉を否定しない。
「やることがあるからやる。その積み重ねが、続ける、です」
「……」
正平は、苦笑した。
言葉遊びみたいだ。
でも、違う。
遊びじゃない。
定義の置き換えだ。
「……褒められる年齢じゃないって、俺が言ったのは」
正平は、机の端を見た。
視線を合わせると、喉が詰まる気がした。
「……褒められると、困るからかもしれませんね」
言ってしまった。
自分でも予想していなかった言葉だった。
しのは、目を細める。
驚いたのではない。
「その言葉が出た」ことを見届ける目だ。
「困る、とは」
「……返し方が分からない。今さら褒められても……どうしたらいいか」
正平は、吐き出すように言った。
「若い人なら、ありがとうございます、で済む。でも、俺が言われると……何か、取り返しがつかない気がする」
「取り返しがつかない」
しのは、また拾う。
拾って、繋げる。
「褒められた瞬間に、終わる感じがしますか」
正平は、ゆっくり頷いた。
「……そうかもしれません」
終わる。
終わる感じ。
それは、取引先の若い担当者に言われた時に感じたものと同じだ。
「この工場はあなたが作ったんですね」
――終わった話にされた気がした。
しのは言う。
「小川さんが怖いのは、褒めではなく、“褒めが終わりの合図になること”かもしれません」
正平は、息を吸った。
その通りだ。
「……じゃあ、俺は」
言葉が続かない。
続けたら、弱音になる。
しのは、無理に続きを聞かない。
ただ、淡々と告げる。
「今日は、ここまでで十分です」
十分。
その言葉が、正平を救った。
“結論を出さなくていい”という許可だった。
時計を見ると、一時間が終わりに近づいている。
しのが、最後に確認するように言った。
「小川さん。今日渡した言葉は信じなくて構いません。覚えていなくてもいい。ただ、もし少しだけ残ったら、それで十分です」
正平は、頷いた。
頷くしかなかった。
「……また来るかどうかは」
自分でも分からない。
だが、言っておきたくなった。
「考えます」
しのは、そこで初めて、ほんの少し口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
だが、部屋の空気が一段柔らかくなる。
「はい。必要だと思ったら」
それだけ。
最後まで、余計なことを言わない。
引き留めもしない。
押し付けもしない。
正平は椅子から立ち上がった。
足が、少しだけ重い。
だが、倒れるような重さではない。
工場で重い材料を運ぶ時の重さとも違う。
――胸の奥が、重い。
それなのに、息がしやすい。
矛盾している。
だが、今日は矛盾のままでいい気がした。
扉の前で、正平は一度だけ振り返った。
しのは、机の上のメモ帳を閉じ、ペンを揃えている。
こちらを見送る目は、相変わらず静かだ。
遠いのに、見ている。
正平は言った。
「……ありがとうございました」
礼儀としての言葉だ。
だが、礼儀だけではなかった。
しのは頷いた。
「こちらこそ。お越しいただいて」
その一言で、セッションは終わった。
余韻を、ここに置いたまま。
持ち帰るのは、こちらだと言わんばかりに。
正平はドアノブに手をかけ、部屋を出た。
階段の踊り場で、足が止まりそうになる。
だが止めない。
止めたら、さっきの言葉がこぼれてしまう気がした。
六十九歳まで、仕事を続けてきた。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥に残っている。
まるで、長年触れてきた鉄の冷たさとは別の、
言葉の重さが沈んでいくみたいに。
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