あなたを褒める仕事をしています

えんびあゆ

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小川正平編

第10話 褒められる年齢ではない[3]

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レンタルスペースのビルは、駅前の賑やかさから一歩外れた場所にあった。
派手な看板はなく、入口のガラス戸に貼られた案内が重なっているだけだ。
英会話、ネイル、占い。
そんな文字列の端に、「レンタルスペース 303」と小さく書かれている。

小川正平は、その紙を見て視線を一瞬だけ泳がせた。

――俺が来る場所じゃない。

そう思うのに、階段に足をかけている。
自分の靴底が、コンクリートを踏む音がやけに大きい。
二階の踊り場で、いったん止まる。
呼吸を整えるため、という建前で。
本当は、戻れる最後の地点を作りたかっただけだ。

だが、戻らない。
戻れないほど追い詰められているわけでもないのに、戻る理由も見つからなかった。

三階。
扉の前。

「303」という数字の横に控えめなプレートがある。
手書きの紙が貼られていて、「本日:予約あり」とだけ。

正平は、ノックした。
二回。
指の関節が、少し固い。

「どうぞ」

中から返る声は、若いのに落ち着いていた。
女の声だ。
それだけで、正平の身体がわずかに警戒を強める。

工場で女性が少ないわけではないが、「こういう場」に女性がいると勝手にこちらが身構える。
気を遣わせたくない。
余計な心配をされたくない。
なのに、気を遣っているのは自分のほうだ。

ドアを開けると、部屋は拍子抜けするほど普通だった。

白い壁。
机。
椅子が二脚。
窓から差す光が、紙の白さを際立たせている。

香りも音も、演出のようなものはない。
温度も湿度も、ちょうどよく整えられている。

――工場とは違う。「整っている」空気だ。

奥の椅子に座っていた女性が、軽く会釈した。

――三枝しの。

SNSのアイコンで見た印象より、現実のほうが静かだった。
派手な化粧も、強い香水もない。
髪はきちんと揃えられていて、服も落ち着いた色。
視線がこちらに向く。
真正面ではない。だが逸らしもしない。
まるで、水面のように距離があるのに、目の奥だけが澄んでいる。

「小川正平さんですね」

名を呼ばれて、正平は一瞬だけ背筋を伸ばした。
呼び捨てでも過剰な敬語でもない。
工場の「社長」でも、家庭の「お父さん」でもない。
ただの「小川正平」として扱われた感じがした。

「……はい」

声は自分でも驚くほど低く短かった。

しのは立ち上がらないまま、丁寧に頭を下げる。

「お越しいただいてありがとうございます。三枝しのです」

名乗り終えると、机の端に置かれた時計へ視線を動かし、またこちらを見る。

「本日は一時間です。途中で止めたくなったら止めて構いません。無理はしないでください」

その言い方は優しさというより、ルールの説明だった。
だから正平は頷けた。
慰められるより、よほど楽だ。

正平は椅子に腰を下ろした。
座り心地が悪いわけではない。
だが、背中が落ち着かない。
工場の椅子のように「座る」ための椅子ではなく、「話す」ための椅子だからだ。

しのはメモ帳を開くが、すぐには書かない。
ペン先を紙に落とす前に、確認するように口を開いた。

「予約フォーム、拝見しています。年齢と、お名前。ご希望形式は対面。……褒めてほしいポイントは空欄でした」

空欄。
その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。

「……書けませんでした」

正平は、言い訳をしないように言った。
言い訳をすると、余計にみっともなくなる気がした。

しのは頷く。

「問題ありません。書けない方もいらっしゃいます」

「……そうですか」

「はい。では」

しのは、そこで間を置いた。
焦らせない間。置き去りにしない間。
仕事の打ち合わせの沈黙とは違う種類だ。

「今日は、褒めてほしいポイントではなく、ここに来た理由を聞かせてください。雑でも大丈夫です。言葉にならなくても構いません」

理由。

正平は喉の奥が乾くのを感じた。
理由なんて、はっきりしていない。
ただ――気になっただけだ。
確かめたくなっただけだ。

六十九歳の男が、わざわざ金を払って。

正平は視線を机の端へ落とし、そこにある紙コップを見た。
まだ水も入っていない、空のコップ。
空っぽの容器を見ていると、口が動く。

「……褒められる年齢じゃない、と思ってましてね」

しのは相槌を打たない。
続きを待つ。

正平は言葉を探す。
普段なら、段取りの話はいくらでもできる。
機械の故障の原因なら説明できる。
だが、これは違う。
原因がひとつじゃない。

「若い人は、褒められて伸びる。……俺も、若い頃は、まあ……そういうのがあった」

自分の中で、過去がぼやける。
褒められた記憶があるのかないのか、曖昧だ。
ただ、「褒められる側だった時期」があったのは分かる。
それがいつの間にか終わっていた。

「でも、もう六十九です。今さら褒められても、どうしようもない。そういう気持ちが……昔からありました」

「昔から」

しのが、言葉を拾うように繰り返した。
質問ではない。確認でもない。
ただ、こちらの言葉を戻してくるだけ。

正平は、少しだけ呼吸が楽になった。
問い詰められているのではない。
整理されているだけだ。

「町工場ってのは基本できて当たり前です。ミスしたら、迷惑かける。納期守れない。信用が落ちる。だから、できた日は当たり前で、できない日だけが問題になる」

工場の論理を話すとき、正平は落ち着く。
慣れている土俵だ。

「それで……親方に言われました。『褒められるうちは半人前だ』って」

「はい」

初めて、しのが短く返事をした。
それだけで、会話が進む。

「だから、褒めは若い人のものだ、って。俺もそう思ってきました。褒められなくなっても、不満はない。それが普通だって」

正平は、そこで止まった。
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