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第21話「囁きのなかで揺れる心」
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正式な婚約が伯爵家から発表されたのは、それから二日後のことだった。
王都の上流階級の間では、瞬く間に話題が広がった。
王太子付き近衛騎士団長レオナード・ヴェルシウスと、アメリア伯爵家令嬢フィオーレ・アメリアの婚約。
貴族たちの誰もが耳を傾けずにはいられない組み合わせだった。
「アメリア嬢が、団長夫人に……」
「でも、少し地味じゃないかしら?」
「カーヴィル侯爵家の令嬢のほうが、ずっと釣り合うと思ってたわ。」
「おっとりしてるけど、なかなかやるわね。」
――おめでとう、という声もある。
けれどその陰で、聞こえるのは心ない囁きや比べるような言葉の数々だった。
フィオーレ・アメリアはその日、母に付き添われて訪れた社交茶会の席で、微笑を保ったまま、ずっと胸の奥がざわついていた。
手にしたティーカップが少し揺れるたび、自分の感情が不安定になっているのを感じる。
(わたし、何を期待していたんだろう)
婚約が決まれば、すべてが夢のように幸せに包まれると——どこかで、そう思っていた。
けれど現実は、祝福だけではなく、無数の視線と評価に晒される日々。
ドレス、言葉遣い、立ち居振る舞い。すべてが“団長の婚約者としてふさわしいかどうか”を試されているようだった。
そんな空気の中、彼女はふと顔を上げた。
数歩先、目が合ったのはリシェル・カーヴィル。
侯爵令嬢として常に注目される彼女は、今も凛とした笑みを崩さず、まるで舞台の中心に立っているかのような風格を持っていた。
その瞳が、ふいにフィオーレを見つめた。
嫌味ではない。嘲笑でもない。
ただ、静かな興味。
フィオーレはそっと視線を逸らした。
(どうしてこんなに……苦しいの)
知らないうちに、自分の手が膝の上でぎゅっと握られていた。
その夜、屋敷へ戻ったフィオーレは、自室の窓辺に座っていた。
風がカーテンを揺らし、薄青の光が室内に落ちる。
静かな夜。けれど心の中には、言葉にならない思いが渦巻いていた。
「……わたし、何も変わっていないのかもしれない。」
そっと呟いた声は、自分の耳にすら頼りなく響いた。
前世でも、わたしは周囲の目が怖かった。自信がなくて、人の言葉ひとつで揺れて、何も言い返せなかった。
今世では違うと思っていた。けれど、結局——また同じことを繰り返しているのではないか。
扉をノックする音が、静けさを破った。
「フィオーレ様、団長がお越しです。」
クラリスの声に、心臓が跳ねる。
「……レオナード様が?」
「はい。玄関にてお待ちです。」
慌てて支度を整えた。
鏡の前で髪を直し、瞳を見つめた。
揺れている。自分の中に、まだ迷いがある。
それでも、彼に会いたいと思った。
応接室に入ると、レオナードが立っていた。
正装ではなく、黒の長衣に肩章だけをつけた騎士の普段着姿。
けれど、その佇まいはいつもと変わらず凛としていた。
「……こんな時間に、ごめんなさい。」
フィオーレが言うと、レオナードは首を横に振った。
「君の顔が見たかった。噂が、君を苦しめていると聞いた。」
「そんな……誰かに、そんな話を?」
「ソフィア嬢から。」
その名を聞いて、胸がじんとした。
あの子は、ずっとわたしの変化に気づいてくれていたのだ。
レオナードは、ゆっくりとフィオーレの前に立った。
「……俺は、君を守りたいと、言ったはずだ。」
低く落ち着いた声が、胸の奥に沁みる。
「だが、その言葉だけでは、足りなかった。婚約したことで、君がどれほどの視線を集めることになるか……俺は軽く考えていた。」
「いいえ、あなたのせいでは……」
「それでも、君が苦しむなら、俺は責任を持つ。」
そう言って、彼はそっと手を差し出した。
「だから、もう一度、言わせてほしい。」
その瞳は、まっすぐにフィオーレを見ていた。
「フィオーレ。……君の隣には、俺がいる。」
その言葉は、ただの慰めではなかった。
静かな誓い。無言の盾。
フィオーレの胸に、ふわりと暖かい風が吹き込むようだった。
「……わたし、まだ怖いの。」
「いい。」
「情けないくらい、人の目が気になるの。」
「当然だ。」
「でも……それでも、あなたの隣にいたい。」
差し出された手に、自分の手を重ねた。
その瞬間、揺れていたすべてが静まり、しっかりと地に足がついた気がした。
「……ありがとう。」
レオナードは何も言わなかった。
けれど、その手に込められた強さが、彼の答えだった。
夜風が、やわらかく吹き抜ける。
涙はこぼれなかった。
ただ、胸の奥に灯った想いが、ゆっくりと温もりになって広がっていく。
——わたしは、大丈夫。
——だって、あの人が、隣にいてくれるのだから。
王都の上流階級の間では、瞬く間に話題が広がった。
王太子付き近衛騎士団長レオナード・ヴェルシウスと、アメリア伯爵家令嬢フィオーレ・アメリアの婚約。
貴族たちの誰もが耳を傾けずにはいられない組み合わせだった。
「アメリア嬢が、団長夫人に……」
「でも、少し地味じゃないかしら?」
「カーヴィル侯爵家の令嬢のほうが、ずっと釣り合うと思ってたわ。」
「おっとりしてるけど、なかなかやるわね。」
――おめでとう、という声もある。
けれどその陰で、聞こえるのは心ない囁きや比べるような言葉の数々だった。
フィオーレ・アメリアはその日、母に付き添われて訪れた社交茶会の席で、微笑を保ったまま、ずっと胸の奥がざわついていた。
手にしたティーカップが少し揺れるたび、自分の感情が不安定になっているのを感じる。
(わたし、何を期待していたんだろう)
婚約が決まれば、すべてが夢のように幸せに包まれると——どこかで、そう思っていた。
けれど現実は、祝福だけではなく、無数の視線と評価に晒される日々。
ドレス、言葉遣い、立ち居振る舞い。すべてが“団長の婚約者としてふさわしいかどうか”を試されているようだった。
そんな空気の中、彼女はふと顔を上げた。
数歩先、目が合ったのはリシェル・カーヴィル。
侯爵令嬢として常に注目される彼女は、今も凛とした笑みを崩さず、まるで舞台の中心に立っているかのような風格を持っていた。
その瞳が、ふいにフィオーレを見つめた。
嫌味ではない。嘲笑でもない。
ただ、静かな興味。
フィオーレはそっと視線を逸らした。
(どうしてこんなに……苦しいの)
知らないうちに、自分の手が膝の上でぎゅっと握られていた。
その夜、屋敷へ戻ったフィオーレは、自室の窓辺に座っていた。
風がカーテンを揺らし、薄青の光が室内に落ちる。
静かな夜。けれど心の中には、言葉にならない思いが渦巻いていた。
「……わたし、何も変わっていないのかもしれない。」
そっと呟いた声は、自分の耳にすら頼りなく響いた。
前世でも、わたしは周囲の目が怖かった。自信がなくて、人の言葉ひとつで揺れて、何も言い返せなかった。
今世では違うと思っていた。けれど、結局——また同じことを繰り返しているのではないか。
扉をノックする音が、静けさを破った。
「フィオーレ様、団長がお越しです。」
クラリスの声に、心臓が跳ねる。
「……レオナード様が?」
「はい。玄関にてお待ちです。」
慌てて支度を整えた。
鏡の前で髪を直し、瞳を見つめた。
揺れている。自分の中に、まだ迷いがある。
それでも、彼に会いたいと思った。
応接室に入ると、レオナードが立っていた。
正装ではなく、黒の長衣に肩章だけをつけた騎士の普段着姿。
けれど、その佇まいはいつもと変わらず凛としていた。
「……こんな時間に、ごめんなさい。」
フィオーレが言うと、レオナードは首を横に振った。
「君の顔が見たかった。噂が、君を苦しめていると聞いた。」
「そんな……誰かに、そんな話を?」
「ソフィア嬢から。」
その名を聞いて、胸がじんとした。
あの子は、ずっとわたしの変化に気づいてくれていたのだ。
レオナードは、ゆっくりとフィオーレの前に立った。
「……俺は、君を守りたいと、言ったはずだ。」
低く落ち着いた声が、胸の奥に沁みる。
「だが、その言葉だけでは、足りなかった。婚約したことで、君がどれほどの視線を集めることになるか……俺は軽く考えていた。」
「いいえ、あなたのせいでは……」
「それでも、君が苦しむなら、俺は責任を持つ。」
そう言って、彼はそっと手を差し出した。
「だから、もう一度、言わせてほしい。」
その瞳は、まっすぐにフィオーレを見ていた。
「フィオーレ。……君の隣には、俺がいる。」
その言葉は、ただの慰めではなかった。
静かな誓い。無言の盾。
フィオーレの胸に、ふわりと暖かい風が吹き込むようだった。
「……わたし、まだ怖いの。」
「いい。」
「情けないくらい、人の目が気になるの。」
「当然だ。」
「でも……それでも、あなたの隣にいたい。」
差し出された手に、自分の手を重ねた。
その瞬間、揺れていたすべてが静まり、しっかりと地に足がついた気がした。
「……ありがとう。」
レオナードは何も言わなかった。
けれど、その手に込められた強さが、彼の答えだった。
夜風が、やわらかく吹き抜ける。
涙はこぼれなかった。
ただ、胸の奥に灯った想いが、ゆっくりと温もりになって広がっていく。
——わたしは、大丈夫。
——だって、あの人が、隣にいてくれるのだから。
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