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第三話 沈黙の広間
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第三話 沈黙の広間
翌朝の王宮は、奇妙なほど静かだった。
夜会の翌日は、いつもなら噂と笑いが飛び交う。誰が誰と踊った、誰が失言した、どの家が新しい同盟を結んだ――そんな話題で廊下は賑わうものだ。
だが今朝は違う。
侍従たちは声を潜め、文官は目を合わせず、騎士たちは整然と立ちながらもどこか距離を保っている。
アルベルト王太子は、その変化にまだ気づいていなかった。
「大袈裟だな。たかが婚約だろう」
執務室でそう言い放ちながら、彼は机に置かれた書類を乱暴にめくる。
財務官は額に汗を滲ませていた。
「殿下、軍需契約が通常価格に戻りました。これまでの優遇条件が消えたことで、来月の支出が――」
「調整すればいい」
「調整では足りません。即時の現金流動が……」
アルベルトは苛立ちを隠さない。
「ルーヴェン家が意趣返しをしているだけだ。いずれ落ち着く」
そのとき、扉が静かに開いた。
白衣の少女が、光を背にして立っている。
「殿下、お疲れでいらっしゃいますわ」
リュシエラは穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。
「皆様が少し騒ぎすぎなのです。殿下は正しい選択をなさったのですから」
その声は甘く、柔らかい。
財務官は視線を下げる。
「……殿下、午後の貴族会議ですが」
「何だ?」
「出席者が……全員、とのことです」
アルベルトは眉をひそめる。
「全員? 派閥代表だけでよいはずだ」
「いえ……主要家門すべてが出席を希望しております」
それは異例だった。
貴族社会は無駄な動きをしない。
全員が集まるということは、全員が“確認したい”ということだ。
「来たいなら来ればいい」
王太子は立ち上がる。
「私が説明すれば済む話だ」
午後。
大広間ではなく、重厚な円卓の間。
侯爵、伯爵、公爵。老齢の重鎮から若き当主まで、ほぼすべての主要家門が揃っている。
ざわめきはない。
誰も先に口を開かない。
アルベルトが入室しても、歓声も拍手もない。
ただ、視線。
静かな視線。
「諸侯よ。昨日の件についてか?」
誰も否定しない。
老公爵がゆっくりと口を開いた。
「殿下、確認いたします。婚約破棄は、王家としての正式決定でございますか」
「当然だ」
「事前協議は」
「不要だ」
空気が、さらに冷える。
「補償案は」
「必要ない」
ざわめきは起きない。
ただ、円卓の上に置かれた指先が、わずかに強く握られただけ。
若い伯爵が慎重に言う。
「殿下。婚約は両家の信義を示すものでございます。付随契約の扱いについて――」
「契約は契約だ。再交渉すればよい」
「その再交渉の根回しが、ございませんでした」
その一言が、鋭い。
アルベルトは苛立つ。
「私は王太子だぞ」
沈黙。
老公爵が静かに返す。
「だからこそでございます」
王太子は、初めて言葉に詰まる。
「……何が言いたい」
「殿下は、王太子であらせられます。ゆえに、契約を軽んじる姿勢は、王家そのものの軽視と映ります」
声は穏やか。
だが、逃げ道はない。
「私は軽んじていない!」
「では、なぜ公開の場で」
言葉が途切れる。
答えは単純だ。
感情。
だがそれを口にすれば、貴族社会では致命的。
円卓は静まり返る。
誰も怒鳴らない。
誰も糾弾しない。
それが逆に、重い。
アルベルトは視線を巡らせる。
味方を探す。
だが、目を合わせる者はいない。
視線を落とす者。
真正面を見据える者。
距離を測る者。
そこへ、リュシエラがそっと一歩前に出る。
「皆様、殿下は神の導きに従われただけですわ」
その声は優しい。
「信仰は国家の柱の一つ。殿下は光を選ばれました」
数名の貴族が、わずかに眉を動かす。
神殿が国家を導く構図は、歓迎されない。
均衡が崩れるからだ。
老公爵は淡々と返す。
「信仰と契約は、別でございます」
それ以上は言わない。
議論は続かない。
ただ、確認が終わる。
会議は解散した。
採決も糾弾もない。
だが全員が理解している。
“王太子は、ルールを理解していない”。
廊下に出た瞬間、アルベルトは息を吐いた。
「大げさだ」
だがその声には、微かな揺らぎがあった。
リュシエラが寄り添う。
「殿下は正しい。あの方々は古い秩序に縛られているだけです」
「そうだ……そうだな」
彼は頷く。
だが、背後で閉まる重い扉の音が、やけに大きく響いた。
その頃、ルーヴェン公爵家では。
エリシアが出立の準備を終え、父と向かい合っていた。
「王宮は動いているようだ」
「ええ。全員出席の会議だったとか」
「怒鳴られはしなかっただろう」
「怒鳴るほど、未熟ではありませんわ」
公爵は微笑む。
「沈黙は、時に宣告より重い」
エリシアは窓の外を見る。
王都の空は、変わらず青い。
「秩序を守る者と、破る者。どちらが残るかは、いずれ分かります」
彼女は馬車へ向かう。
王宮で起きた沈黙の重さを知らぬまま。
いや、知ろうとしないまま。
舞台は、静かに分かれた。
声なき距離が、ゆっくりと広がり始めている。
翌朝の王宮は、奇妙なほど静かだった。
夜会の翌日は、いつもなら噂と笑いが飛び交う。誰が誰と踊った、誰が失言した、どの家が新しい同盟を結んだ――そんな話題で廊下は賑わうものだ。
だが今朝は違う。
侍従たちは声を潜め、文官は目を合わせず、騎士たちは整然と立ちながらもどこか距離を保っている。
アルベルト王太子は、その変化にまだ気づいていなかった。
「大袈裟だな。たかが婚約だろう」
執務室でそう言い放ちながら、彼は机に置かれた書類を乱暴にめくる。
財務官は額に汗を滲ませていた。
「殿下、軍需契約が通常価格に戻りました。これまでの優遇条件が消えたことで、来月の支出が――」
「調整すればいい」
「調整では足りません。即時の現金流動が……」
アルベルトは苛立ちを隠さない。
「ルーヴェン家が意趣返しをしているだけだ。いずれ落ち着く」
そのとき、扉が静かに開いた。
白衣の少女が、光を背にして立っている。
「殿下、お疲れでいらっしゃいますわ」
リュシエラは穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。
「皆様が少し騒ぎすぎなのです。殿下は正しい選択をなさったのですから」
その声は甘く、柔らかい。
財務官は視線を下げる。
「……殿下、午後の貴族会議ですが」
「何だ?」
「出席者が……全員、とのことです」
アルベルトは眉をひそめる。
「全員? 派閥代表だけでよいはずだ」
「いえ……主要家門すべてが出席を希望しております」
それは異例だった。
貴族社会は無駄な動きをしない。
全員が集まるということは、全員が“確認したい”ということだ。
「来たいなら来ればいい」
王太子は立ち上がる。
「私が説明すれば済む話だ」
午後。
大広間ではなく、重厚な円卓の間。
侯爵、伯爵、公爵。老齢の重鎮から若き当主まで、ほぼすべての主要家門が揃っている。
ざわめきはない。
誰も先に口を開かない。
アルベルトが入室しても、歓声も拍手もない。
ただ、視線。
静かな視線。
「諸侯よ。昨日の件についてか?」
誰も否定しない。
老公爵がゆっくりと口を開いた。
「殿下、確認いたします。婚約破棄は、王家としての正式決定でございますか」
「当然だ」
「事前協議は」
「不要だ」
空気が、さらに冷える。
「補償案は」
「必要ない」
ざわめきは起きない。
ただ、円卓の上に置かれた指先が、わずかに強く握られただけ。
若い伯爵が慎重に言う。
「殿下。婚約は両家の信義を示すものでございます。付随契約の扱いについて――」
「契約は契約だ。再交渉すればよい」
「その再交渉の根回しが、ございませんでした」
その一言が、鋭い。
アルベルトは苛立つ。
「私は王太子だぞ」
沈黙。
老公爵が静かに返す。
「だからこそでございます」
王太子は、初めて言葉に詰まる。
「……何が言いたい」
「殿下は、王太子であらせられます。ゆえに、契約を軽んじる姿勢は、王家そのものの軽視と映ります」
声は穏やか。
だが、逃げ道はない。
「私は軽んじていない!」
「では、なぜ公開の場で」
言葉が途切れる。
答えは単純だ。
感情。
だがそれを口にすれば、貴族社会では致命的。
円卓は静まり返る。
誰も怒鳴らない。
誰も糾弾しない。
それが逆に、重い。
アルベルトは視線を巡らせる。
味方を探す。
だが、目を合わせる者はいない。
視線を落とす者。
真正面を見据える者。
距離を測る者。
そこへ、リュシエラがそっと一歩前に出る。
「皆様、殿下は神の導きに従われただけですわ」
その声は優しい。
「信仰は国家の柱の一つ。殿下は光を選ばれました」
数名の貴族が、わずかに眉を動かす。
神殿が国家を導く構図は、歓迎されない。
均衡が崩れるからだ。
老公爵は淡々と返す。
「信仰と契約は、別でございます」
それ以上は言わない。
議論は続かない。
ただ、確認が終わる。
会議は解散した。
採決も糾弾もない。
だが全員が理解している。
“王太子は、ルールを理解していない”。
廊下に出た瞬間、アルベルトは息を吐いた。
「大げさだ」
だがその声には、微かな揺らぎがあった。
リュシエラが寄り添う。
「殿下は正しい。あの方々は古い秩序に縛られているだけです」
「そうだ……そうだな」
彼は頷く。
だが、背後で閉まる重い扉の音が、やけに大きく響いた。
その頃、ルーヴェン公爵家では。
エリシアが出立の準備を終え、父と向かい合っていた。
「王宮は動いているようだ」
「ええ。全員出席の会議だったとか」
「怒鳴られはしなかっただろう」
「怒鳴るほど、未熟ではありませんわ」
公爵は微笑む。
「沈黙は、時に宣告より重い」
エリシアは窓の外を見る。
王都の空は、変わらず青い。
「秩序を守る者と、破る者。どちらが残るかは、いずれ分かります」
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いや、知ろうとしないまま。
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