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第二話 契約の重み
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第二話 契約の重み
ルーヴェン公爵家の屋敷は、夜会から戻った後も慌ただしかった。
だがそれは、怒りや混乱によるものではない。
淡々と、粛々と、整然と。
執務室には既に主要な家臣が集められていた。財務長、軍需監督官、商会頭取、港湾管理責任者。彼らは一様に静かな面持ちで、主君の娘を待っている。
エリシアが入室すると、全員が立ち上がった。
「お嬢様」
「座ってください」
その声音に動揺はない。泣き腫らした様子もなければ、怒りもない。ただ、冷静な光が瞳に宿っている。
父、公爵がゆっくりと口を開いた。
「確認する。婚約は正式に破棄された」
「はい。公衆の面前で」
「根回しは?」
「ございません」
短い沈黙が落ちる。
財務長が息を吐いた。
「……つまり、王家は国家契約を一方的に破棄したという理解でよろしいですな」
「婚約は信義の証。信義が失われた以上、契約は再検討対象ですわ」
エリシアの言葉に、軍需監督官が頷く。
「軍需品の優先供給契約は婚約条項に付随しております。継続義務はございません」
「穀物備蓄の保証も同様です」
「港湾の関税優遇も停止可能です」
一つ一つ、事実が確認されていく。
誰も声を荒げない。
怒号も嘆きもない。
貴族社会において、感情は最終手段だ。
今必要なのは整理である。
エリシアは静かに言った。
「王家に対する敵対行為は行いません。ただし、特別待遇は終了。すべて通常契約へ戻します」
「猶予期間は?」
「設けません」
その決断に、商会頭取がわずかに目を細める。
「王宮は混乱するでしょうな」
「それは、あちらの問題です」
淡々と。
彼女は椅子に腰を下ろした。
「婚約破棄は恋愛問題ではありません。公衆の面前で行われた以上、我が家の体面は保たれました。怒鳴り返さなかったことで、我々は秩序を守った側になります」
公爵は娘を見つめる。
「……辛くはないか」
一瞬だけ、沈黙。
エリシアは目を伏せ、そして微笑んだ。
「契約が終わっただけですわ」
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女は感情を切り離している。
だがそれは無感情ではない。
秩序を守るという覚悟だ。
財務長が帳簿を開いた。
「王家関連の特別条項を全停止すると、三日以内に王宮の現金流動が逼迫します」
「三日ですか」
「はい。軍需支払いが滞るでしょう」
軍需監督官が低く言う。
「軍の不満が高まれば、王太子殿下の求心力は急落しますな」
エリシアは小さく首を振る。
「私たちは何もしません。契約を通常に戻すだけです」
“何もしない”ことが、最も強い。
そこへ侍従が入室した。
「お嬢様、隣国より急使が」
公爵が眉を上げる。
「早いな」
封蝋を解き、書簡を開く。
短い文面。
――婚約破棄の報は承知した。
――今後の関税交渉について、改めて直接会談を希望する。
隣国は動きが早い。
王家の後ろ盾が揺らいだ瞬間、彼らは計算を始めている。
エリシアは頷いた。
「日程を調整してください。私は隣国へ赴きます」
執務室にいる者たちは理解している。
彼女は逃げるのではない。
次の舞台へ進むのだ。
その頃、王宮では。
アルベルト王太子は、甘い声に包まれていた。
「殿下はお疲れですわ。あのような女に振り回されて」
リュシエラがそっと腕を絡める。
「……大げさだ。婚約を解消しただけだ」
王太子はまだ軽く考えている。
「ええ、殿下は正しい」
その言葉は、蜜のように心地よい。
だが同時刻、財務官が慌てて走っている。
「契約停止の通達が届きました!」
「は?」
「軍需、穀物、港湾、すべて通常扱いへ戻るとのことです」
王太子は眉をひそめる。
「嫌がらせか?」
「……契約条項に基づく措置です」
そこに違法はない。
あるのは“信義の終了”。
王太子は苛立つ。
「俺は王太子だぞ」
財務官は言葉を選ぶ。
「殿下。王太子であっても、契約は契約です」
その言葉が、わずかに重い。
だが王太子は聞き流す。
「なんとかなる」
リュシエラが微笑む。
「殿下に従わない者は、私が処理しておきますわ」
軽い調子。
冗談のよう。
財務官は顔を上げる。
「……何と?」
「何でもございません」
柔らかな笑顔。
だがその言葉は、王宮の空気に小さな棘を残す。
翌朝。
王都の商会に通達が回る。
“王家特別優遇の終了”。
市場がざわつく。
貴族たちは動かない。
騒がない。
ただ、静かに距離を測り始める。
公開破棄は、恋愛の宣言ではなかった。
それは、秩序に対する挑戦だった。
そしてルーヴェン公爵家は、感情ではなく規則で応じた。
エリシアは旅支度を整えながら、侍女に言う。
「今回の件で、私たちは一つ学びました」
「何を、でございますか」
「契約は、相手が守るとは限らないということ」
窓の外に朝日が差し込む。
「だからこそ、守る価値があるのです」
彼女の視線は前を向いている。
後ろは振り返らない。
王太子はまだ理解していない。
彼が壊したのは婚約ではない。
信義という基盤だということを。
その重みが、ゆっくりと彼の足元を揺らし始めていることを。
ルーヴェン公爵家の屋敷は、夜会から戻った後も慌ただしかった。
だがそれは、怒りや混乱によるものではない。
淡々と、粛々と、整然と。
執務室には既に主要な家臣が集められていた。財務長、軍需監督官、商会頭取、港湾管理責任者。彼らは一様に静かな面持ちで、主君の娘を待っている。
エリシアが入室すると、全員が立ち上がった。
「お嬢様」
「座ってください」
その声音に動揺はない。泣き腫らした様子もなければ、怒りもない。ただ、冷静な光が瞳に宿っている。
父、公爵がゆっくりと口を開いた。
「確認する。婚約は正式に破棄された」
「はい。公衆の面前で」
「根回しは?」
「ございません」
短い沈黙が落ちる。
財務長が息を吐いた。
「……つまり、王家は国家契約を一方的に破棄したという理解でよろしいですな」
「婚約は信義の証。信義が失われた以上、契約は再検討対象ですわ」
エリシアの言葉に、軍需監督官が頷く。
「軍需品の優先供給契約は婚約条項に付随しております。継続義務はございません」
「穀物備蓄の保証も同様です」
「港湾の関税優遇も停止可能です」
一つ一つ、事実が確認されていく。
誰も声を荒げない。
怒号も嘆きもない。
貴族社会において、感情は最終手段だ。
今必要なのは整理である。
エリシアは静かに言った。
「王家に対する敵対行為は行いません。ただし、特別待遇は終了。すべて通常契約へ戻します」
「猶予期間は?」
「設けません」
その決断に、商会頭取がわずかに目を細める。
「王宮は混乱するでしょうな」
「それは、あちらの問題です」
淡々と。
彼女は椅子に腰を下ろした。
「婚約破棄は恋愛問題ではありません。公衆の面前で行われた以上、我が家の体面は保たれました。怒鳴り返さなかったことで、我々は秩序を守った側になります」
公爵は娘を見つめる。
「……辛くはないか」
一瞬だけ、沈黙。
エリシアは目を伏せ、そして微笑んだ。
「契約が終わっただけですわ」
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女は感情を切り離している。
だがそれは無感情ではない。
秩序を守るという覚悟だ。
財務長が帳簿を開いた。
「王家関連の特別条項を全停止すると、三日以内に王宮の現金流動が逼迫します」
「三日ですか」
「はい。軍需支払いが滞るでしょう」
軍需監督官が低く言う。
「軍の不満が高まれば、王太子殿下の求心力は急落しますな」
エリシアは小さく首を振る。
「私たちは何もしません。契約を通常に戻すだけです」
“何もしない”ことが、最も強い。
そこへ侍従が入室した。
「お嬢様、隣国より急使が」
公爵が眉を上げる。
「早いな」
封蝋を解き、書簡を開く。
短い文面。
――婚約破棄の報は承知した。
――今後の関税交渉について、改めて直接会談を希望する。
隣国は動きが早い。
王家の後ろ盾が揺らいだ瞬間、彼らは計算を始めている。
エリシアは頷いた。
「日程を調整してください。私は隣国へ赴きます」
執務室にいる者たちは理解している。
彼女は逃げるのではない。
次の舞台へ進むのだ。
その頃、王宮では。
アルベルト王太子は、甘い声に包まれていた。
「殿下はお疲れですわ。あのような女に振り回されて」
リュシエラがそっと腕を絡める。
「……大げさだ。婚約を解消しただけだ」
王太子はまだ軽く考えている。
「ええ、殿下は正しい」
その言葉は、蜜のように心地よい。
だが同時刻、財務官が慌てて走っている。
「契約停止の通達が届きました!」
「は?」
「軍需、穀物、港湾、すべて通常扱いへ戻るとのことです」
王太子は眉をひそめる。
「嫌がらせか?」
「……契約条項に基づく措置です」
そこに違法はない。
あるのは“信義の終了”。
王太子は苛立つ。
「俺は王太子だぞ」
財務官は言葉を選ぶ。
「殿下。王太子であっても、契約は契約です」
その言葉が、わずかに重い。
だが王太子は聞き流す。
「なんとかなる」
リュシエラが微笑む。
「殿下に従わない者は、私が処理しておきますわ」
軽い調子。
冗談のよう。
財務官は顔を上げる。
「……何と?」
「何でもございません」
柔らかな笑顔。
だがその言葉は、王宮の空気に小さな棘を残す。
翌朝。
王都の商会に通達が回る。
“王家特別優遇の終了”。
市場がざわつく。
貴族たちは動かない。
騒がない。
ただ、静かに距離を測り始める。
公開破棄は、恋愛の宣言ではなかった。
それは、秩序に対する挑戦だった。
そしてルーヴェン公爵家は、感情ではなく規則で応じた。
エリシアは旅支度を整えながら、侍女に言う。
「今回の件で、私たちは一つ学びました」
「何を、でございますか」
「契約は、相手が守るとは限らないということ」
窓の外に朝日が差し込む。
「だからこそ、守る価値があるのです」
彼女の視線は前を向いている。
後ろは振り返らない。
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彼が壊したのは婚約ではない。
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