1 / 40
第一話 舞踏会の宣言
しおりを挟む
第一話 舞踏会の宣言
王宮の大広間は、今宵も眩い光に満ちていた。天井のシャンデリアは幾千もの燭台を抱き、磨き上げられた大理石の床は、貴族たちの衣装を淡く映し返している。楽団の奏でる優雅な旋律の下、色とりどりのドレスと軍装がゆるやかに揺れ、王都の秩序はいつも通り、静かに回っているように見えた。
その中心に立つのは、王太子アルベルトと、彼の婚約者である公爵令嬢エリシア・フォン・ルーヴェン。
本来であれば、この夜会は二人の絆を内外に示す場であった。公爵家と王家の結びつきは、単なる婚約以上の意味を持つ。軍需契約、穀物供給、港湾管理、隣国との関税調整――それらすべてが、この婚約を基礎として組み上げられている。
だが、王太子の表情は晴れやかだった。妙に、晴れやかすぎるほどに。
「諸侯よ、聞け」
楽団が音を止める。ざわめきが広間に広がる。
エリシアは、隣に立つ王太子を静かに見上げた。彼の横顔は高揚に染まり、その視線は自分ではなく、やや後方に立つ白衣の少女へ向いている。
神殿より招かれた新たな“聖女”、リュシエラ。
清らかな白衣、胸元に下げられた銀の十字、慎ましやかに伏せられた睫毛。だが、その瞳が王太子を見る瞬間だけ、熱を帯びていることに気づいている者は少ない。
「私は、本日をもってエリシアとの婚約を破棄する」
言葉は、あまりにも軽く、あまりにも公然と放たれた。
一瞬、空気が凍る。
それでも王太子は続ける。
「私が真に選ぶべきは、真実の光だ。リュシエラこそが、神に選ばれし聖女。私は彼女と共に歩む」
広間の視線が一斉に動く。
驚愕。 困惑。 そして、計算。
エリシアは、ゆっくりと瞬きをした。
――根回しはない。 ――事前通告もない。 ――補償の話もない。
これは感情の宣言だ。
だが、ここは舞踏会。公式儀礼の場。列席しているのは公爵、侯爵、伯爵、そして国外の使節まで含む。
公開での婚約破棄は、単なる男女の問題ではない。
それは、契約の破棄であり、面子の破壊であり、秩序への挑戦だ。
それでも、エリシアは笑みを崩さなかった。
「承知いたしました、殿下」
静かな声だった。
悲鳴も怒号もない。
「ですが、確認を一つ。これは王家としての正式な意思と受け取ってよろしいのですね?」
王太子はわずかに眉を寄せる。
「当然だ。私は王太子だ」
「……左様でございますか」
その一言で十分だった。
周囲の貴族たちは理解する。
“これは感情の破棄ではない。国家契約の一方的解消だ。”
エリシアは、優雅に一礼した。
「それでは、本日をもってルーヴェン公爵家は、王家との全契約を精査し、必要な整理に入らせていただきます」
王太子の顔が、ほんのわずかに曇る。
「……何を言っている?」
「婚約は両家の信義の証。信義が失われた以上、契約の再確認は当然かと」
その言葉に、数名の老貴族が目を伏せた。
ルールは単純だ。
貴族社会は、契約と合意で成り立つ。
婚約は恋ではない。 王太子の一存で壊してよいものではない。
だが、アルベルトはまだ理解していない。
「大げさだな。婚約を解消しただけだ」
その瞬間、広間にわずかな緊張が走る。
“だけ”。
その軽さが、すべてを物語っていた。
エリシアはそれ以上言葉を重ねない。
父であるルーヴェン公爵も、怒らない。騒がない。ただ、静かに娘の隣へ立つ。
「帰ろう」
それだけ。
怒号がないことが、かえって重い。
列席していた諸侯は、互いに目配せを交わす。
根回しなし。 補償なし。 公開破棄。
これは前例を作る。
“次は誰が、同じ目に遭う?”
その疑念が、広間に広がる。
王太子はなお、白衣の少女の手を取る。
リュシエラは、柔らかく微笑んだ。
「殿下は、正しいご決断をなさいました」
その声は優しい。
だが、その言葉が何を意味するのかを理解している者は少ない。
エリシアは最後に振り返らない。
舞踏会の扉が閉じる音が、妙に大きく響いた。
音楽は再開されない。
ざわめきも、すぐには戻らない。
王太子はようやく周囲を見回す。
歓声はない。 祝福もない。
ただ、整えられた沈黙。
それが、貴族社会の最初の返答だった。
リュシエラは、王太子の腕にそっと身を寄せる。
「殿下に従わないものは、いずれ淘汰されますわ」
穏やかな囁き。
王太子は聞き流す。
まだ、何も起きていないと思っている。
だがこの夜、王宮の秩序は静かに軋み始めた。
公開で破られたのは婚約ではない。
貴族界の暗黙のルールだった。
そして、そのルールを軽んじた代償は、ゆっくりと、しかし確実に積み上がっていく。
エリシアは帰路の馬車の中で、窓の外を見つめていた。
「お嬢様……」
侍女が不安げに声をかける。
「心配はいりません」
彼女は穏やかに答える。
「契約が終わっただけですわ」
その声音に揺らぎはない。
失ったものよりも、これから整理すべきものの方が明確だった。
王太子は感情を選んだ。
エリシアは秩序を選ぶ。
舞台は分かれた。
そしてこの夜は、ただの始まりに過ぎなかった。
王宮の大広間は、今宵も眩い光に満ちていた。天井のシャンデリアは幾千もの燭台を抱き、磨き上げられた大理石の床は、貴族たちの衣装を淡く映し返している。楽団の奏でる優雅な旋律の下、色とりどりのドレスと軍装がゆるやかに揺れ、王都の秩序はいつも通り、静かに回っているように見えた。
その中心に立つのは、王太子アルベルトと、彼の婚約者である公爵令嬢エリシア・フォン・ルーヴェン。
本来であれば、この夜会は二人の絆を内外に示す場であった。公爵家と王家の結びつきは、単なる婚約以上の意味を持つ。軍需契約、穀物供給、港湾管理、隣国との関税調整――それらすべてが、この婚約を基礎として組み上げられている。
だが、王太子の表情は晴れやかだった。妙に、晴れやかすぎるほどに。
「諸侯よ、聞け」
楽団が音を止める。ざわめきが広間に広がる。
エリシアは、隣に立つ王太子を静かに見上げた。彼の横顔は高揚に染まり、その視線は自分ではなく、やや後方に立つ白衣の少女へ向いている。
神殿より招かれた新たな“聖女”、リュシエラ。
清らかな白衣、胸元に下げられた銀の十字、慎ましやかに伏せられた睫毛。だが、その瞳が王太子を見る瞬間だけ、熱を帯びていることに気づいている者は少ない。
「私は、本日をもってエリシアとの婚約を破棄する」
言葉は、あまりにも軽く、あまりにも公然と放たれた。
一瞬、空気が凍る。
それでも王太子は続ける。
「私が真に選ぶべきは、真実の光だ。リュシエラこそが、神に選ばれし聖女。私は彼女と共に歩む」
広間の視線が一斉に動く。
驚愕。 困惑。 そして、計算。
エリシアは、ゆっくりと瞬きをした。
――根回しはない。 ――事前通告もない。 ――補償の話もない。
これは感情の宣言だ。
だが、ここは舞踏会。公式儀礼の場。列席しているのは公爵、侯爵、伯爵、そして国外の使節まで含む。
公開での婚約破棄は、単なる男女の問題ではない。
それは、契約の破棄であり、面子の破壊であり、秩序への挑戦だ。
それでも、エリシアは笑みを崩さなかった。
「承知いたしました、殿下」
静かな声だった。
悲鳴も怒号もない。
「ですが、確認を一つ。これは王家としての正式な意思と受け取ってよろしいのですね?」
王太子はわずかに眉を寄せる。
「当然だ。私は王太子だ」
「……左様でございますか」
その一言で十分だった。
周囲の貴族たちは理解する。
“これは感情の破棄ではない。国家契約の一方的解消だ。”
エリシアは、優雅に一礼した。
「それでは、本日をもってルーヴェン公爵家は、王家との全契約を精査し、必要な整理に入らせていただきます」
王太子の顔が、ほんのわずかに曇る。
「……何を言っている?」
「婚約は両家の信義の証。信義が失われた以上、契約の再確認は当然かと」
その言葉に、数名の老貴族が目を伏せた。
ルールは単純だ。
貴族社会は、契約と合意で成り立つ。
婚約は恋ではない。 王太子の一存で壊してよいものではない。
だが、アルベルトはまだ理解していない。
「大げさだな。婚約を解消しただけだ」
その瞬間、広間にわずかな緊張が走る。
“だけ”。
その軽さが、すべてを物語っていた。
エリシアはそれ以上言葉を重ねない。
父であるルーヴェン公爵も、怒らない。騒がない。ただ、静かに娘の隣へ立つ。
「帰ろう」
それだけ。
怒号がないことが、かえって重い。
列席していた諸侯は、互いに目配せを交わす。
根回しなし。 補償なし。 公開破棄。
これは前例を作る。
“次は誰が、同じ目に遭う?”
その疑念が、広間に広がる。
王太子はなお、白衣の少女の手を取る。
リュシエラは、柔らかく微笑んだ。
「殿下は、正しいご決断をなさいました」
その声は優しい。
だが、その言葉が何を意味するのかを理解している者は少ない。
エリシアは最後に振り返らない。
舞踏会の扉が閉じる音が、妙に大きく響いた。
音楽は再開されない。
ざわめきも、すぐには戻らない。
王太子はようやく周囲を見回す。
歓声はない。 祝福もない。
ただ、整えられた沈黙。
それが、貴族社会の最初の返答だった。
リュシエラは、王太子の腕にそっと身を寄せる。
「殿下に従わないものは、いずれ淘汰されますわ」
穏やかな囁き。
王太子は聞き流す。
まだ、何も起きていないと思っている。
だがこの夜、王宮の秩序は静かに軋み始めた。
公開で破られたのは婚約ではない。
貴族界の暗黙のルールだった。
そして、そのルールを軽んじた代償は、ゆっくりと、しかし確実に積み上がっていく。
エリシアは帰路の馬車の中で、窓の外を見つめていた。
「お嬢様……」
侍女が不安げに声をかける。
「心配はいりません」
彼女は穏やかに答える。
「契約が終わっただけですわ」
その声音に揺らぎはない。
失ったものよりも、これから整理すべきものの方が明確だった。
王太子は感情を選んだ。
エリシアは秩序を選ぶ。
舞台は分かれた。
そしてこの夜は、ただの始まりに過ぎなかった。
14
あなたにおすすめの小説
今さら救いの手とかいらないのですが……
カレイ
恋愛
侯爵令嬢オデットは学園の嫌われ者である。
それもこれも、子爵令嬢シェリーシアに罪をなすりつけられ、公衆の面前で婚約破棄を突きつけられたせい。
オデットは信じてくれる友人のお陰で、揶揄されながらもそれなりに楽しい生活を送っていたが……
「そろそろ許してあげても良いですっ」
「あ、結構です」
伸ばされた手をオデットは払い除ける。
許さなくて良いので金輪際関わってこないで下さいと付け加えて。
※全19話の短編です。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
覚悟はありますか?
翔王(とわ)
恋愛
私は王太子の婚約者として10年以上すぎ、王太子妃教育も終わり、学園卒業後に結婚し王妃教育が始まる間近に1人の令嬢が発した言葉で王族貴族社会が荒れた……。
「あたし、王太子妃になりたいんですぅ。」
ご都合主義な創作作品です。
異世界版ギャル風な感じの話し方も混じりますのでご了承ください。
恋愛カテゴリーにしてますが、恋愛要素は薄めです。
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる