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第五話 最初の不在
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第五話 最初の不在
王宮の朝は、いつも決まった順序で動く。
財務官が先に出仕し、帳簿を確認し、王太子への報告書を整える。軍需の支払い、商会の動き、穀物の入庫予定――数字は正確であることがすべてだ。
だがその朝、執務室の机は空だった。
「……まだ来ていないのか?」
副官が時計を見上げる。
いつもならとっくに着席している時間だ。
使いが出される。
返ってきた報告は簡潔だった。
「今朝、馬車が横転したとのことです。王都南門付近で。御者は軽傷、しかし……財務官殿は――」
言葉が途切れる。
事故。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが王宮の空気は、昨日までと違う意味で静まり返る。
アルベルトは報告を受け、顔をしかめた。
「不運だな」
それだけだった。
「代わりはいるのか?」
「おりますが、帳簿の引き継ぎに時間が――」
「急げ。軍への支払いが遅れれば面倒だ」
事務的な反応。
感傷はない。
だが廊下では、囁きが生まれていた。
昨日の婚約破棄。
契約停止。
そして今日の事故。
因果関係はない。
証拠もない。
だが“早すぎる”。
重鎮の一人が低く呟く。
「偶然にしては、な」
その声は、壁に吸い込まれる。
一方、ルーヴェン公爵家の馬車は国境を越えつつあった。
エリシアは隣国の地図を広げている。
「港湾の再配分、こちら側に寄せられますね」
「王家優遇が消えたことで、商会は合理的に動きます」
「当然ですわ」
彼女は視線を落とす。
「合理性は裏切りません」
侍女がそっと言う。
「王宮では、事故があったと」
エリシアは目を上げる。
「事故?」
「財務官が……」
一瞬だけ、沈黙。
だが彼女は眉を動かさない。
「お気の毒に。だが、私たちには関係ありません」
それは冷たい言葉ではない。
線引きだ。
彼女はもう、王宮の内部事情に関与する立場ではない。
関与しないと決めたのだ。
王宮では、円卓に再び貴族が集まっていた。
「財務官の代替は?」
「若い文官が繰り上げられました」
「経験不足だ」
「だが他にいない」
沈黙。
誰も口にしない。
“昨日、殿下に進言していたな”。
その事実を。
アルベルトは苛立っていた。
「皆、顔色が悪いぞ。事故だろう」
リュシエラが微笑む。
「殿下に従わぬ者は、不運を呼びますのね」
軽い口調。
冗談のよう。
だがその場にいた者の背筋に、微かな冷気が走る。
「……今のは、どういう意味だ」
若い文官が恐る恐る問う。
「何でもございませんわ」
柔らかな笑顔。
白衣は今日も清らかだ。
血など、一滴もない。
夜。
アルベルトは初めて、わずかな違和感を覚えた。
財務官の顔が浮かぶ。
昨日、強い口調で契約の重みを説いた姿。
「契約は契約です」
その声が、妙に耳に残る。
寝台に横たわる。
目を閉じる。
だが、すぐに目を開ける。
何もない。
静かな天井。
隣で、リュシエラが眠っている。
白い寝衣。
穏やかな寝息。
血など、ない。
事故だ。
ただの事故。
そう自分に言い聞かせる。
一方、隣国の城では。
エリシアが初の正式会談に臨んでいた。
「王家優遇の終了により、港湾再配分が可能になりました」
相手は若き皇帝ディルク。
鋭い眼差しを持つが、言葉は静かだ。
「あなたは冷静だな」
「感情は契約を守りません」
エリシアは微笑む。
「ですが、信義は守ります」
その言葉に、皇帝は興味深そうに目を細めた。
同時刻、王宮の南門では事故現場が片付けられていた。
車輪の跡。
わずかな血の痕。
だが公式報告は短い。
――不運な転倒事故。
それ以上の記述はない。
王宮の空気は、さらに重くなる。
誰も口にしない。
だが皆が思う。
偶然は、続くだろうか。
アルベルトは眠れない。
目を閉じるたび、あの一言が浮かぶ。
「殿下に従わない者は、不運を呼びますのね」
隣で眠る白い少女は、静かに微笑んでいる。
血はない。
証拠もない。
だが王宮に、最初の“不在”が生まれた。
それはただの事故。
そう、公式には記録される。
けれど秩序は覚えている。
タイミングという、形のない違和感を。
王宮の朝は、いつも決まった順序で動く。
財務官が先に出仕し、帳簿を確認し、王太子への報告書を整える。軍需の支払い、商会の動き、穀物の入庫予定――数字は正確であることがすべてだ。
だがその朝、執務室の机は空だった。
「……まだ来ていないのか?」
副官が時計を見上げる。
いつもならとっくに着席している時間だ。
使いが出される。
返ってきた報告は簡潔だった。
「今朝、馬車が横転したとのことです。王都南門付近で。御者は軽傷、しかし……財務官殿は――」
言葉が途切れる。
事故。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが王宮の空気は、昨日までと違う意味で静まり返る。
アルベルトは報告を受け、顔をしかめた。
「不運だな」
それだけだった。
「代わりはいるのか?」
「おりますが、帳簿の引き継ぎに時間が――」
「急げ。軍への支払いが遅れれば面倒だ」
事務的な反応。
感傷はない。
だが廊下では、囁きが生まれていた。
昨日の婚約破棄。
契約停止。
そして今日の事故。
因果関係はない。
証拠もない。
だが“早すぎる”。
重鎮の一人が低く呟く。
「偶然にしては、な」
その声は、壁に吸い込まれる。
一方、ルーヴェン公爵家の馬車は国境を越えつつあった。
エリシアは隣国の地図を広げている。
「港湾の再配分、こちら側に寄せられますね」
「王家優遇が消えたことで、商会は合理的に動きます」
「当然ですわ」
彼女は視線を落とす。
「合理性は裏切りません」
侍女がそっと言う。
「王宮では、事故があったと」
エリシアは目を上げる。
「事故?」
「財務官が……」
一瞬だけ、沈黙。
だが彼女は眉を動かさない。
「お気の毒に。だが、私たちには関係ありません」
それは冷たい言葉ではない。
線引きだ。
彼女はもう、王宮の内部事情に関与する立場ではない。
関与しないと決めたのだ。
王宮では、円卓に再び貴族が集まっていた。
「財務官の代替は?」
「若い文官が繰り上げられました」
「経験不足だ」
「だが他にいない」
沈黙。
誰も口にしない。
“昨日、殿下に進言していたな”。
その事実を。
アルベルトは苛立っていた。
「皆、顔色が悪いぞ。事故だろう」
リュシエラが微笑む。
「殿下に従わぬ者は、不運を呼びますのね」
軽い口調。
冗談のよう。
だがその場にいた者の背筋に、微かな冷気が走る。
「……今のは、どういう意味だ」
若い文官が恐る恐る問う。
「何でもございませんわ」
柔らかな笑顔。
白衣は今日も清らかだ。
血など、一滴もない。
夜。
アルベルトは初めて、わずかな違和感を覚えた。
財務官の顔が浮かぶ。
昨日、強い口調で契約の重みを説いた姿。
「契約は契約です」
その声が、妙に耳に残る。
寝台に横たわる。
目を閉じる。
だが、すぐに目を開ける。
何もない。
静かな天井。
隣で、リュシエラが眠っている。
白い寝衣。
穏やかな寝息。
血など、ない。
事故だ。
ただの事故。
そう自分に言い聞かせる。
一方、隣国の城では。
エリシアが初の正式会談に臨んでいた。
「王家優遇の終了により、港湾再配分が可能になりました」
相手は若き皇帝ディルク。
鋭い眼差しを持つが、言葉は静かだ。
「あなたは冷静だな」
「感情は契約を守りません」
エリシアは微笑む。
「ですが、信義は守ります」
その言葉に、皇帝は興味深そうに目を細めた。
同時刻、王宮の南門では事故現場が片付けられていた。
車輪の跡。
わずかな血の痕。
だが公式報告は短い。
――不運な転倒事故。
それ以上の記述はない。
王宮の空気は、さらに重くなる。
誰も口にしない。
だが皆が思う。
偶然は、続くだろうか。
アルベルトは眠れない。
目を閉じるたび、あの一言が浮かぶ。
「殿下に従わない者は、不運を呼びますのね」
隣で眠る白い少女は、静かに微笑んでいる。
血はない。
証拠もない。
だが王宮に、最初の“不在”が生まれた。
それはただの事故。
そう、公式には記録される。
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