『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第十一話 名前だけが歩き出す

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第十一話 名前だけが歩き出す

 王宮の混乱が、誰の目にもはっきりと見えるようになった頃。
 奇妙な現象が起き始めていた。

 ――リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルの名だけが、ひとり歩きしている。

「……以前は、あの方がいらしたから」

「ええ、だから問題にならなかったのですわね」

 控えめな声で交わされる会話は、日に日に増えていく。
 名指しは避けられ、言い回しは曖昧だが、誰のことを指しているのかは明白だった。

 決裁が滞った案件。
 外交で生じた小さな齟齬。
 社交の場で起きた、取り返しのつかない失言。

 そのすべての“比較対象”として、
 リュシエンヌの存在が持ち出される。

「彼女なら、こうはならなかった」

 誰かがそう呟き、
 別の誰かが、黙って頷く。

 不思議なことに、そこには恨みも嫉妬もなかった。
 あるのは、事実の確認だけだ。

 ――確かに、あの頃は、回っていた。

 王太子ユリウスは、その空気を肌で感じていた。

 側近たちは以前より慎重になり、
 官吏たちは、言葉を選ぶようになった。

 誰も、はっきりとは言わない。
 だが、沈黙の中に、同じ認識が漂っている。

(……まるで、彼女が今もここにいるかのようだ)

 執務室で、ユリウスは書類を見つめながら、苛立ちを募らせる。
 いないはずの存在が、影のようにつきまとってくる。

「……もう、過去の話だ」

 誰に言うでもなく呟く。
 だが、その言葉には、力がなかった。

 新しい婚約者の令嬢もまた、同じ重圧を感じていた。

 直接責められることはない。
 だが、何か問題が起きるたび、
 周囲の空気が、ほんの一瞬、冷たくなる。

(……比べられている)

 誰も言葉にしないが、それは確かだった。

 彼女は努力している。
 懸命に学び、場に馴染もうとしている。
 だが、それは“今から追いつこうとする姿”でしかない。

 そして人々は、無意識のうちに思ってしまう。

 ――なぜ、手放したのか。

 その問いは、王太子だけでなく、
 王宮全体に向けられ始めていた。

 一方、ヴァイセル公爵家では。

「……最近、妙な話を聞きますわ」

 侍女が、控えめに切り出す。

「お嬢様のお名前が、王宮で頻繁に話題に上っていると」

 リュシエンヌは、ソファに腰を下ろしたまま、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。

「そうですの」

 それだけの反応。

「……お戻りになるのでは、と期待している方も……」

「期待、ですか」

 カップを置き、少しだけ考える。

「困っているから、戻ってほしい。
 でも、以前のように扱ってもいい。
 ――そういう期待でしょう?」

 侍女は、言葉に詰まった。

「……はい」

「でしたら、なおさら無理ですわね」

 あっさりとした答えだった。

「わたくしは、もう“便利な存在”ではありませんもの」

 その言葉に、侍女は何も返せなかった。

 リュシエンヌは、窓の外を眺めながら、静かに続ける。

「人の評価というものは、不思議ですわね。
 いる間は当然で、いなくなってから価値に気づく」

 それは、皮肉でも、恨み言でもない。
 ただの観察だった。

「でも……それで戻れば、
 また同じことを繰り返すだけです」

 王宮では、さらに噂が広がっていた。

「彼女は、怒っているのではない」

「いえ……むしろ、完全に距離を置いたのでしょう」

「だからこそ、厄介だ」

 怒りや復讐なら、対処のしようがある。
 だが、無関心は――どうにもならない。

 その事実に、人々は少しずつ気づき始めていた。

 そして、ある官吏が、ぽつりと口にした。

「……彼女は、何もしていない。
 それなのに、
 彼女がいないことで、これほど影響が出る」

 その言葉は、静かな衝撃を伴って広がる。

 リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
 王宮にいない。

 だが、その名前だけは、
 今もなお、王宮のあちこちを歩き回っている。

 それは、
 彼女がどれほど深く、
 知らぬ間に根を張っていたかの証だった。

 そして――

「……だからこそ、戻ってはいけませんわね」

 ヴァイセル公爵家の静かな部屋で、
 リュシエンヌは、はっきりとそう結論づけた。

 名前が歩き出したとしても、
 本人まで引き戻される必要はない。

 彼女はもう、
 自分の人生を、取り戻しているのだから。
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