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第十二話 何もしないという贅沢
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第十二話 何もしないという贅沢
その日、リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、特に何の予定も立てなかった。
朝――というより、昼前。
ゆっくりと目を覚まし、ベッドの上でしばらく天井を眺める。
起きなければならない理由はない。
だが、眠り続ける理由もない。
「……起きましょうか」
そう呟いて体を起こす。
誰にも急かされない起床は、相変わらず新鮮だった。
身支度を整え、軽めの昼食をとる。
その後、何をするか――考えて、ふと思う。
(……本当に、何もする必要がありませんわね)
王宮にいた頃なら、この“空白”は耐えがたいものだった。
時間があれば、何かを詰め込まなければならない。
役に立つこと、意味のあること、生産的なこと。
だが今は違う。
窓際の椅子に腰を下ろし、紅茶を飲む。
本棚から、適当に一冊を抜き取る。
数ページ読んで、気が向かなければ閉じる。
それだけで、一刻が過ぎていく。
(……不思議ですわ)
何もしていないのに、心が落ち着いている。
むしろ、何もしていないからこそ、余計な思考が消えていく。
その様子を、侍女がそっと見守っていた。
「……お嬢様」
「何か?」
「いえ……その……」
言いよどむ様子に、リュシエンヌは首を傾げる。
「どうなさいました?」
「……本当に、お辛くないのですか?」
その問いは、心配から出たものだった。
同情ではない。
侍女自身が、戸惑っているのだ。
婚約破棄をされた令嬢が、
これほど穏やかに過ごしている光景を、見たことがない。
リュシエンヌは、少し考えてから答えた。
「辛くない、と言えば嘘になりますわ」
侍女の表情が、わずかに引き締まる。
「ですが……」
続く言葉は、静かだった。
「辛かったのは、婚約破棄そのものではありません。
ずっと、“自分の時間がなかったこと”です」
侍女は、息を呑む。
「役目を果たし、期待に応え、失敗しないように振る舞う。
それが当たり前だと思っていました」
だが。
「今は、何もしなくていい。
その事実が……とても楽なのです」
そう言って、微笑む。
それは、王宮で見せていた“完璧な微笑”とは違う、
力の抜けた、自然な表情だった。
侍女は、深く頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「いいえ。心配してくださって、ありがとうございます」
その後、午後は庭で過ごした。
特別なことは何もない。
日差しを浴び、風を感じ、草花を眺める。
かつては、“意味のない時間”と切り捨てていたもの。
(……意味がないのではなく、
意味を求めすぎていたのですね)
夕方、父であるヴァイセル公爵が、廊下ですれ違いざまに声をかけてきた。
「今日は、何をしていた?」
「……何も」
正直に答えると、公爵は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに苦笑した。
「そうか」
それだけだった。
叱責も、助言もない。
その態度が、何よりも心地よかった。
夜。
リュシエンヌは、ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。
王宮では今も、彼女の名前が話題に上っているだろう。
評価が高まろうと、惜しまれようと、関係ない。
今の彼女にとって、大切なのは――
「……明日も、何もしないこと」
そう決められる自由だ。
人は、何かを成し遂げなくても、生きていていい。
役に立たなくても、価値がある。
それを、ようやく実感できた一日だった。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
今日もまた、何もせずに一日を終える。
だがその“何もしない”という選択は、
彼女の人生を、静かに、しかし確実に満たしていた。
そして――
それこそが、
彼女が手に入れた、最大の贅沢だった。
その日、リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、特に何の予定も立てなかった。
朝――というより、昼前。
ゆっくりと目を覚まし、ベッドの上でしばらく天井を眺める。
起きなければならない理由はない。
だが、眠り続ける理由もない。
「……起きましょうか」
そう呟いて体を起こす。
誰にも急かされない起床は、相変わらず新鮮だった。
身支度を整え、軽めの昼食をとる。
その後、何をするか――考えて、ふと思う。
(……本当に、何もする必要がありませんわね)
王宮にいた頃なら、この“空白”は耐えがたいものだった。
時間があれば、何かを詰め込まなければならない。
役に立つこと、意味のあること、生産的なこと。
だが今は違う。
窓際の椅子に腰を下ろし、紅茶を飲む。
本棚から、適当に一冊を抜き取る。
数ページ読んで、気が向かなければ閉じる。
それだけで、一刻が過ぎていく。
(……不思議ですわ)
何もしていないのに、心が落ち着いている。
むしろ、何もしていないからこそ、余計な思考が消えていく。
その様子を、侍女がそっと見守っていた。
「……お嬢様」
「何か?」
「いえ……その……」
言いよどむ様子に、リュシエンヌは首を傾げる。
「どうなさいました?」
「……本当に、お辛くないのですか?」
その問いは、心配から出たものだった。
同情ではない。
侍女自身が、戸惑っているのだ。
婚約破棄をされた令嬢が、
これほど穏やかに過ごしている光景を、見たことがない。
リュシエンヌは、少し考えてから答えた。
「辛くない、と言えば嘘になりますわ」
侍女の表情が、わずかに引き締まる。
「ですが……」
続く言葉は、静かだった。
「辛かったのは、婚約破棄そのものではありません。
ずっと、“自分の時間がなかったこと”です」
侍女は、息を呑む。
「役目を果たし、期待に応え、失敗しないように振る舞う。
それが当たり前だと思っていました」
だが。
「今は、何もしなくていい。
その事実が……とても楽なのです」
そう言って、微笑む。
それは、王宮で見せていた“完璧な微笑”とは違う、
力の抜けた、自然な表情だった。
侍女は、深く頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「いいえ。心配してくださって、ありがとうございます」
その後、午後は庭で過ごした。
特別なことは何もない。
日差しを浴び、風を感じ、草花を眺める。
かつては、“意味のない時間”と切り捨てていたもの。
(……意味がないのではなく、
意味を求めすぎていたのですね)
夕方、父であるヴァイセル公爵が、廊下ですれ違いざまに声をかけてきた。
「今日は、何をしていた?」
「……何も」
正直に答えると、公爵は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに苦笑した。
「そうか」
それだけだった。
叱責も、助言もない。
その態度が、何よりも心地よかった。
夜。
リュシエンヌは、ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。
王宮では今も、彼女の名前が話題に上っているだろう。
評価が高まろうと、惜しまれようと、関係ない。
今の彼女にとって、大切なのは――
「……明日も、何もしないこと」
そう決められる自由だ。
人は、何かを成し遂げなくても、生きていていい。
役に立たなくても、価値がある。
それを、ようやく実感できた一日だった。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、
今日もまた、何もせずに一日を終える。
だがその“何もしない”という選択は、
彼女の人生を、静かに、しかし確実に満たしていた。
そして――
それこそが、
彼女が手に入れた、最大の贅沢だった。
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