4 / 40
4話 消えるという選択
しおりを挟む
4話 消えるという選択
契約が完了した翌朝、王都はいつもと変わらない顔をしていた。
市場は開き、鐘は鳴り、噂は勝手に増殖する。ファーファ・ノクティスが“降りた”事実だけが、まだ整理されていない。
屋敷の廊下は静かだった。
使用人の数は最小限に減らしてある。残る者たちも、今日で雇用は終わる。
「……本当に、よろしいのですね」
家宰が、最後の確認のように言った。
ファーファは、頷いた。
「全部、終わっています」
爵位は返上済み。
領地は売却済み。
屋敷は引き渡し準備が整っている。
やるべきことは、もうない。
「置いていくものは?」
「ありません」
思い出も、未練も、箱に詰める必要はなかった。
荷物は、小さな鞄ひとつだけ。中身は、衣服と本、それと少しの私物。過不足はない。
――身軽だ。
玄関で立ち止まり、ファーファは一度だけ振り返った。
広い屋敷。長い廊下。整えられた庭。
ここで過ごした時間が、無意味だったとは思わない。
ただ、ここに居続ける理由が、もうなかった。
「では」
それだけ告げて、扉を出る。
馬車は使わなかった。
目立つし、面倒だ。
街道を外れ、裏道を歩く。昼前の王都は、人が多い。だが、誰も彼女に気づかない。貴族令嬢の衣装を脱ぎ、目立たない外套を羽織っただけで、世界はこんなにも静かになる。
門を抜ける頃、背後で誰かが呼ぶ声がした気がした。
振り返らない。
――今さら、何を言うつもりだろう。
同情か、説得か、あるいは後悔の言葉か。
どれも、聞く必要はない。
王都を離れる道は、なだらかに続いている。
舗装は悪く、ところどころに草が伸びている。人通りは少なく、風の音がよく通った。
ファーファは、歩いた。
速くもなく、遅くもなく。
目的地は、地図の上では曖昧な場所だ。
山地。街道から外れた、ただの空白。
そこに、小さな家がある。
誰のものでもない。
誰も気に留めない。
それでいい。
日が傾く頃、簡素な建物が見えてきた。
石造りで、雨風をしのげるだけの造り。扉は重く、鍵は単純だ。豪華さはないが、壊れてもいない。
中に入ると、ひんやりとした空気が迎えた。
机と椅子、棚、寝台。必要最低限。
ファーファは鞄を置き、椅子に腰掛けた。
静かだ。
誰も、期待しない。
誰も、評価しない。
誰も、役割を押し付けない。
「……いい」
それが、率直な感想だった。
夜になり、ランプに火を入れる。
本を開き、数頁読んでから閉じる。疲れているわけではないが、眠くなった。
布に身を預け、目を閉じる。
王都では今頃、噂が飛び交っているだろう。
逃げた。
消えた。
戻るはずだ。
どれも、違う。
逃げてはいない。
消えてもいない。
ただ、関わらない場所へ来ただけだ。
翌朝、山の空気は冷たかった。
扉の外に、小さな木箱が置かれている。
開けると、保存の利く食料と、乾燥した薪、簡素な道具。
送り主の名はない。印もない。
「……届くのね」
契約通りだ。
ファーファは箱を室内に運び、必要な分だけ取り出した。
残りは棚に置く。
それで終わり。
山地で食料確保に奔走することもない。
不安に駆られて備蓄を数えることもない。
ただ、静かに暮らす。
それが、選んだ結果だった。
王都では、この日を境に一つの記録が残された。
――ファーファ・ノクティス、消息不明。
だが彼女自身は、
それを“問題”だとは、少しも思っていなかった。
契約が完了した翌朝、王都はいつもと変わらない顔をしていた。
市場は開き、鐘は鳴り、噂は勝手に増殖する。ファーファ・ノクティスが“降りた”事実だけが、まだ整理されていない。
屋敷の廊下は静かだった。
使用人の数は最小限に減らしてある。残る者たちも、今日で雇用は終わる。
「……本当に、よろしいのですね」
家宰が、最後の確認のように言った。
ファーファは、頷いた。
「全部、終わっています」
爵位は返上済み。
領地は売却済み。
屋敷は引き渡し準備が整っている。
やるべきことは、もうない。
「置いていくものは?」
「ありません」
思い出も、未練も、箱に詰める必要はなかった。
荷物は、小さな鞄ひとつだけ。中身は、衣服と本、それと少しの私物。過不足はない。
――身軽だ。
玄関で立ち止まり、ファーファは一度だけ振り返った。
広い屋敷。長い廊下。整えられた庭。
ここで過ごした時間が、無意味だったとは思わない。
ただ、ここに居続ける理由が、もうなかった。
「では」
それだけ告げて、扉を出る。
馬車は使わなかった。
目立つし、面倒だ。
街道を外れ、裏道を歩く。昼前の王都は、人が多い。だが、誰も彼女に気づかない。貴族令嬢の衣装を脱ぎ、目立たない外套を羽織っただけで、世界はこんなにも静かになる。
門を抜ける頃、背後で誰かが呼ぶ声がした気がした。
振り返らない。
――今さら、何を言うつもりだろう。
同情か、説得か、あるいは後悔の言葉か。
どれも、聞く必要はない。
王都を離れる道は、なだらかに続いている。
舗装は悪く、ところどころに草が伸びている。人通りは少なく、風の音がよく通った。
ファーファは、歩いた。
速くもなく、遅くもなく。
目的地は、地図の上では曖昧な場所だ。
山地。街道から外れた、ただの空白。
そこに、小さな家がある。
誰のものでもない。
誰も気に留めない。
それでいい。
日が傾く頃、簡素な建物が見えてきた。
石造りで、雨風をしのげるだけの造り。扉は重く、鍵は単純だ。豪華さはないが、壊れてもいない。
中に入ると、ひんやりとした空気が迎えた。
机と椅子、棚、寝台。必要最低限。
ファーファは鞄を置き、椅子に腰掛けた。
静かだ。
誰も、期待しない。
誰も、評価しない。
誰も、役割を押し付けない。
「……いい」
それが、率直な感想だった。
夜になり、ランプに火を入れる。
本を開き、数頁読んでから閉じる。疲れているわけではないが、眠くなった。
布に身を預け、目を閉じる。
王都では今頃、噂が飛び交っているだろう。
逃げた。
消えた。
戻るはずだ。
どれも、違う。
逃げてはいない。
消えてもいない。
ただ、関わらない場所へ来ただけだ。
翌朝、山の空気は冷たかった。
扉の外に、小さな木箱が置かれている。
開けると、保存の利く食料と、乾燥した薪、簡素な道具。
送り主の名はない。印もない。
「……届くのね」
契約通りだ。
ファーファは箱を室内に運び、必要な分だけ取り出した。
残りは棚に置く。
それで終わり。
山地で食料確保に奔走することもない。
不安に駆られて備蓄を数えることもない。
ただ、静かに暮らす。
それが、選んだ結果だった。
王都では、この日を境に一つの記録が残された。
――ファーファ・ノクティス、消息不明。
だが彼女自身は、
それを“問題”だとは、少しも思っていなかった。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。
椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」
ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。
ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。
今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって?
これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。
さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら?
――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで
ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。
辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。
この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。
「リリアーナ……本当に、君なのか」
――来た。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。
振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。
「……お久しぶりですね、エリオット様」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる