『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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4話 消えるという選択

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4話 消えるという選択

 契約が完了した翌朝、王都はいつもと変わらない顔をしていた。
 市場は開き、鐘は鳴り、噂は勝手に増殖する。ファーファ・ノクティスが“降りた”事実だけが、まだ整理されていない。

 屋敷の廊下は静かだった。
 使用人の数は最小限に減らしてある。残る者たちも、今日で雇用は終わる。

「……本当に、よろしいのですね」

 家宰が、最後の確認のように言った。
 ファーファは、頷いた。

「全部、終わっています」

 爵位は返上済み。
 領地は売却済み。
 屋敷は引き渡し準備が整っている。

 やるべきことは、もうない。

「置いていくものは?」

「ありません」

 思い出も、未練も、箱に詰める必要はなかった。
 荷物は、小さな鞄ひとつだけ。中身は、衣服と本、それと少しの私物。過不足はない。

 ――身軽だ。

 玄関で立ち止まり、ファーファは一度だけ振り返った。
 広い屋敷。長い廊下。整えられた庭。

 ここで過ごした時間が、無意味だったとは思わない。
 ただ、ここに居続ける理由が、もうなかった。

「では」

 それだけ告げて、扉を出る。

 馬車は使わなかった。
 目立つし、面倒だ。

 街道を外れ、裏道を歩く。昼前の王都は、人が多い。だが、誰も彼女に気づかない。貴族令嬢の衣装を脱ぎ、目立たない外套を羽織っただけで、世界はこんなにも静かになる。

 門を抜ける頃、背後で誰かが呼ぶ声がした気がした。
 振り返らない。

 ――今さら、何を言うつもりだろう。

 同情か、説得か、あるいは後悔の言葉か。
 どれも、聞く必要はない。

 王都を離れる道は、なだらかに続いている。
 舗装は悪く、ところどころに草が伸びている。人通りは少なく、風の音がよく通った。

 ファーファは、歩いた。
 速くもなく、遅くもなく。

 目的地は、地図の上では曖昧な場所だ。
 山地。街道から外れた、ただの空白。

 そこに、小さな家がある。
 誰のものでもない。
 誰も気に留めない。

 それでいい。

 日が傾く頃、簡素な建物が見えてきた。
 石造りで、雨風をしのげるだけの造り。扉は重く、鍵は単純だ。豪華さはないが、壊れてもいない。

 中に入ると、ひんやりとした空気が迎えた。
 机と椅子、棚、寝台。必要最低限。

 ファーファは鞄を置き、椅子に腰掛けた。

 静かだ。

 誰も、期待しない。
 誰も、評価しない。
 誰も、役割を押し付けない。

「……いい」

 それが、率直な感想だった。

 夜になり、ランプに火を入れる。
 本を開き、数頁読んでから閉じる。疲れているわけではないが、眠くなった。

 布に身を預け、目を閉じる。

 王都では今頃、噂が飛び交っているだろう。
 逃げた。
 消えた。
 戻るはずだ。

 どれも、違う。

 逃げてはいない。
 消えてもいない。
 ただ、関わらない場所へ来ただけだ。

 翌朝、山の空気は冷たかった。
 扉の外に、小さな木箱が置かれている。

 開けると、保存の利く食料と、乾燥した薪、簡素な道具。
 送り主の名はない。印もない。

「……届くのね」

 契約通りだ。

 ファーファは箱を室内に運び、必要な分だけ取り出した。
 残りは棚に置く。

 それで終わり。

 山地で食料確保に奔走することもない。
 不安に駆られて備蓄を数えることもない。

 ただ、静かに暮らす。

 それが、選んだ結果だった。

 王都では、この日を境に一つの記録が残された。

 ――ファーファ・ノクティス、消息不明。

 だが彼女自身は、
 それを“問題”だとは、少しも思っていなかった。
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