『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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3話 契約という壁

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3話 契約という壁

 契約は、紙の上で完結する。
 だからこそ、感情は要らない。

 応接室の長机には、束ねられた書類が整然と並べられていた。
 羊皮紙の匂いと、乾いたインクの色。ここで交わされるのは、情ではなく、条文だ。

 ファーファ・ノクティスは席に着き、淡々と書類に目を通した。
 価格、引き渡し期限、領民の処遇、行政の継続。どれも妥当で、問題はない。

 ――問題は、ここから。

 彼女は一枚、栞を挟んだ頁を開いた。

「特約、追加します」

 向かいに座る辺境伯が、視線だけを上げた。

「聞こう」

「まず、私の所在について」

 事務官の筆が止まる。

「契約成立後、私の居住地、移動、生存状況を含む一切の情報は秘匿。調査、探索、推測、報告、すべて禁止」

 部屋の空気がわずかに張った。
 普通なら、理由を問われる条項だ。

 だがファーファは、説明しなかった。

「……王家からの照会があった場合は?」

「応じない」

 即答だった。

「命令でも?」

「それでも」

 辺境伯はしばし沈黙し、やがて低く言った。

「徹底しているな」

「見つかると、めんどくさいので」

 理由は、それだけで十分だった。

 次の頁に移る。

「もう一つ。定期的な物資搬送について」

 事務官が顔を上げ、辺境伯が僅かに眉を動かした。

「援助は不要です」

 ファーファは先に釘を刺す。

「売却代金の一部を留保。そこから物資代、搬送費、管理費を自動支出。私は、受け取るだけ。貴方は、実行手続きをするだけ」

 つまり、善意も恩義も介在しない。

 辺境伯は条文を読み、ゆっくり頷いた。

「金は君のものだ。私は触らない」

「はい」

「物資の内容は?」

「生きるのに必要な最低限。豪華さは不要。季節対応は、任せます」

「……合理的だ」

 事務官が確認する。

「物資提供は義務ではなく、契約履行として扱いますか」

「そうしてください。感謝も返礼も、不要です」

 それは“支援”ではなかった。
 自分の生活費を、あらかじめまとめて支払うだけの話だ。

 最後の頁。
 違反時の条項。

 所在秘匿に反した場合、契約の保護は失われ、領地取得の正当性が再審査される。軽微な違反は認めない。

 ――強い。

 事務官が息を呑み、辺境伯が短く笑った。

「ここまで書かれると、逃げ道がないな」

「逃げる気はありません」

 ファーファは首を振る。

「ただ、関わらないだけです」

 ペンが渡される。
 彼女は躊躇なく署名した。

 続いて、辺境伯が署名する。
 インクが乾く音はしない。ただ、線が引かれるだけだ。

「これで、終わりだ」

 辺境伯は書類を閉じた。

「私は、知らない立場でいる」

「助かります」

 それ以上の会話はなかった。

 応接室を出ると、廊下は静かだった。
 噂も、評価も、まだ追ってくるだろう。

 だが、それらはもう、紙の向こう側だ。

 契約という壁が、きちんと立った。

 ファーファ・ノクティスは、歩きながら思う。

 ――これでいい。

 やりたくないから、やらない。
 めんどくさいから、距離を取る。

 その選択を、世界はもう覆せない。

 彼女は、静かに“降りた”。
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