『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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5話 何も起きない日々

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5話 何も起きない日々

 山の朝は、静かだった。

 鳥の声で目が覚めることもあれば、何も聞こえず、ただ明るくなった気配で目を開けることもある。決まった時刻はない。必要もない。

 ファーファは、起きたいときに起きた。

 寝台から出て、窓を開ける。冷たい空気が入り込み、頭が少しだけ冴える。深呼吸をしてから、扉の外を見る。

 今日も、箱が置かれていた。

 大きくもなく、小さくもない。持ち上げるのに困らない重さ。中身は、見なくてもだいたい分かる。

「……相変わらず、正確ね」

 独り言を落とし、箱を中に運ぶ。

 中身は保存食と乾燥肉、豆、塩。季節に合わせた衣類と、薬草の包み。それと、紅茶。

 豪華ではない。
 不足もない。

 狩りに出る必要はなかった。
 罠を仕掛ける必要もない。
 畑を耕す計画も、立てていない。

 ファーファは、棚に物資を収めると、湯を沸かした。紅茶を淹れ、椅子に腰掛ける。

 静かだ。

 王都にいた頃は、静けさは「隙」として扱われた。何もしていない時間は、怠惰と呼ばれ、説明を求められた。

 ここでは違う。

 何も起きない時間は、ただの時間だった。

 本を開く。
 数頁読んで、閉じる。
 また開く。

 集中しているわけでもない。だが、焦りもない。

 昼になり、簡単な食事を取る。量は少なめでいい。誰に見せるわけでもないのだから、見栄も要らない。

 食べ終え、皿を洗い、また座る。

 ――退屈かと聞かれたら、どうだろう。

 ファーファは少し考えた。

 退屈という言葉は、何かを期待している人間のためのものだ。ここでは、期待する相手も、される相手もいない。

 だから、退屈は存在しない。

 午後、外に出る。
 散歩というほどの距離でもない。ただ、家の周囲を一回りするだけ。

 山は、何も要求してこない。
 話しかけてもこない。
 役割も与えない。

 それが、心地よかった。

 夕方、雲が流れ、日が傾く。
 ファーファは、薪を少しだけ足し、火を整える。

 生活は、回っていた。
 誰かに支えられている感覚もない。

「支援物資……」

 ふと、思い出したように呟く。

「まあ……年金みたいなものよね」

 すでに終えた役割への清算。
 すでに払われた対価。

 借りはない。
 返す義務もない。

 だから、気持ちが楽だった。

 夜、本を閉じ、ランプを消す。
 寝台に横になり、目を閉じる。

 今日も、何も起きなかった。
 問題も、事件も、誰かの感情も。

 それでいい。

 王都では今頃、誰かが焦り、誰かが噂し、誰かが後悔しているかもしれない。だが、それはもう、ファーファの世界ではない。

 ここには、静かな山と、変わらない日々があるだけだ。

 ファーファ・ノクティスは、その中で、何もせず、何も望まず、ただ眠りについた。

 ――何も起きない。

 それが、この生活の、いちばんの価値だった。
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