『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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6話 事務としての距離

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6話 事務としての距離

 辺境伯の執務室は、無駄がなかった。

 書類は分類され、棚は整えられ、置かれているのは必要なものだけだ。感情を挟む余地は、最初から用意されていない。

「定期搬送、今月分の確認を」

 事務官が差し出した帳簿に、辺境伯は目を落とした。

 物資の内容。
 数量。
 支出額。
 搬送経路。

 すべて、契約通り。

「遅延は?」

「ありません。天候も安定しています」

「なら問題ない」

 それだけで、話は終わるはずだった。

 だが事務官は、少しだけ言い淀んだ。

「……王都から、照会が来ています」

「例の件か」

「はい。“旧ノクティス伯令嬢の安否確認”を求める内容です」

 辺境伯は、帳簿から視線を上げなかった。

「回答は?」

「契約条項に基づき、非開示と」

「それでいい」

 事務官は頷き、続ける。

「強めの言い回しでした。王命を匂わせています」

「命令でも、応じない」

 淡々とした声だった。
 反抗ではない。拒否でもない。

 ただの、契約履行だ。

「我々は、知らない立場だ」

「……承知しました」

 事務官が下がると、室内は再び静かになった。

 辺境伯は、もう一度帳簿を確認する。
 物資の内訳に、過不足はない。

 彼女は、生きているだろう。
 それ以上の情報は、不要だ。

 知ろうとしないことも、契約の一部だった。

 ――助けているわけではない。

 そう、何度も自分に言い聞かせる。

 金は、彼女のものだ。
 物資も、彼女の生活費だ。
 自分は、ただの窓口。

 感情を挟めば、契約は歪む。

 それが、彼女の望まないことだと分かっている。

 一方その頃、山の家。

 ファーファは、昼過ぎまで眠っていた。

 特に理由はない。
 夜更かしをしたわけでもない。

 起きたくなかったから、起きなかっただけだ。

 外に出ると、箱が置かれている。
 今日も、契約は正確だった。

「……変わらないわね」

 箱を運び、中を確認する。
 保存食、塩、油、布。前回より少しだけ、量が調整されている。

 季節が進んでいる。

 ファーファは、必要な分だけ取り出した。
 残りは、そのまま。

 不安はない。
 計算もしない。

 もし届かなくなったら、その時に考える。
 今は、考える必要がない。

 湯を沸かし、簡単な食事を取る。
 外では風が吹き、木々が揺れている。

 王都で誰が何を考えているか、興味はなかった。
 探されていることも、想像はつく。

 だが、それは“壁の向こう側”の話だ。

 契約という壁。
 合理という距離。

 それがある限り、ここは静かだ。

 ファーファは椅子に座り、窓の外を眺める。
 雲が流れ、光が移ろう。

「……平和」

 小さく呟いて、本を開いた。

 その頃、辺境伯は別の書類に署名していた。
 彼女の名は、どこにも出てこない。

 それでいい。

 関わらないこと。
 踏み込まないこと。

 それが、双方にとって、いちばん正しい距離だった。
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