『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

文字の大きさ
6 / 40

6話 事務としての距離

しおりを挟む
6話 事務としての距離

 辺境伯の執務室は、無駄がなかった。

 書類は分類され、棚は整えられ、置かれているのは必要なものだけだ。感情を挟む余地は、最初から用意されていない。

「定期搬送、今月分の確認を」

 事務官が差し出した帳簿に、辺境伯は目を落とした。

 物資の内容。
 数量。
 支出額。
 搬送経路。

 すべて、契約通り。

「遅延は?」

「ありません。天候も安定しています」

「なら問題ない」

 それだけで、話は終わるはずだった。

 だが事務官は、少しだけ言い淀んだ。

「……王都から、照会が来ています」

「例の件か」

「はい。“旧ノクティス伯令嬢の安否確認”を求める内容です」

 辺境伯は、帳簿から視線を上げなかった。

「回答は?」

「契約条項に基づき、非開示と」

「それでいい」

 事務官は頷き、続ける。

「強めの言い回しでした。王命を匂わせています」

「命令でも、応じない」

 淡々とした声だった。
 反抗ではない。拒否でもない。

 ただの、契約履行だ。

「我々は、知らない立場だ」

「……承知しました」

 事務官が下がると、室内は再び静かになった。

 辺境伯は、もう一度帳簿を確認する。
 物資の内訳に、過不足はない。

 彼女は、生きているだろう。
 それ以上の情報は、不要だ。

 知ろうとしないことも、契約の一部だった。

 ――助けているわけではない。

 そう、何度も自分に言い聞かせる。

 金は、彼女のものだ。
 物資も、彼女の生活費だ。
 自分は、ただの窓口。

 感情を挟めば、契約は歪む。

 それが、彼女の望まないことだと分かっている。

 一方その頃、山の家。

 ファーファは、昼過ぎまで眠っていた。

 特に理由はない。
 夜更かしをしたわけでもない。

 起きたくなかったから、起きなかっただけだ。

 外に出ると、箱が置かれている。
 今日も、契約は正確だった。

「……変わらないわね」

 箱を運び、中を確認する。
 保存食、塩、油、布。前回より少しだけ、量が調整されている。

 季節が進んでいる。

 ファーファは、必要な分だけ取り出した。
 残りは、そのまま。

 不安はない。
 計算もしない。

 もし届かなくなったら、その時に考える。
 今は、考える必要がない。

 湯を沸かし、簡単な食事を取る。
 外では風が吹き、木々が揺れている。

 王都で誰が何を考えているか、興味はなかった。
 探されていることも、想像はつく。

 だが、それは“壁の向こう側”の話だ。

 契約という壁。
 合理という距離。

 それがある限り、ここは静かだ。

 ファーファは椅子に座り、窓の外を眺める。
 雲が流れ、光が移ろう。

「……平和」

 小さく呟いて、本を開いた。

 その頃、辺境伯は別の書類に署名していた。
 彼女の名は、どこにも出てこない。

 それでいい。

 関わらないこと。
 踏み込まないこと。

 それが、双方にとって、いちばん正しい距離だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。

椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」 ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。 ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。 今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって? これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。 さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら? ――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。 曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。 婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。 前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。

「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで

ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。 辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。 この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。 「リリアーナ……本当に、君なのか」 ――来た。 その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。 振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。 「……お久しぶりですね、エリオット様」

処理中です...