『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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16話 遅れても、困らない

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16話 遅れても、困らない

 朝、目を覚ましたとき、ファーファは少しだけ首を傾げた。

 外が、やけに静かだった。

 風の音も、鳥の声も、いつもより控えめだ。悪天候ではない。ただ、山全体が息を潜めているような感覚がある。

 布を押しのけ、ゆっくりと体を起こす。
 起きる理由は特にないが、今日は目が覚めてしまった。

 外套を羽織り、扉を開ける。

 ――箱が、ない。

 定位置には、何も置かれていなかった。
 地面に残るのは、昨日までと同じ足跡と、乾いた土だけ。

「……今日は、来てないのね」

 それだけ呟いて、扉を閉める。

 驚きは、なかった。
 不安も、なかった。

 遅れることがあるのは、契約で想定されている。
 天候、輸送、事務処理。理由はいくつも考えられるが、考える必要はない。

 ――届かない日が、あってもいい。

 それは、最初から織り込み済みだ。

 ファーファは室内に戻り、湯を沸かした。
 残っている保存食で、簡単な朝食を取る。

 量は、いつもと同じ。
 足りている。

 食後、椅子に座り、しばらく何もしなかった。
 本を手に取る気分でもなく、外に出る理由もない。

 何もしない時間が、ただ流れる。

 王都にいた頃、この時間は耐えがたいものだった。
 「何をしているのか」と問われる前に、何かをしているふりをしなければならなかった。

 今は違う。

 何もしていなくても、何も失われない。

 午前が過ぎ、昼になる。
 箱は、まだ来ない。

 それでも、生活は変わらない。

 昼食を取り、後片付けをする。
 食器を拭き、棚に戻す。

 棚を見渡して、在庫を確認することもしない。
 足りなくなるまで、足りている。

 午後、少しだけ外に出る。
 空は高く、雲は流れている。道は乾いており、歩きにくさはない。

 運搬が遅れているなら、こういう日だろう。

 ファーファは家の周囲を一回りし、戻った。

 夕方になっても、箱は届かなかった。

 それでも、困らない。

 火を起こし、簡単な食事を取る。
 温かいものがあるだけで、十分だった。

 火の前に座り、揺れる炎を眺める。

 もし、今日も明日も届かなければ。
 その時は、その時だ。

 山を下りる必要はない。
 誰かに連絡を取る必要もない。

 足りなくなったら、考える。
 今は、考えなくていい。

 それが、この生活の前提だった。

 夜、灯りを落とす。
 寝台に横になり、目を閉じる。

 箱が届かなかった一日。
 それだけの事実。

 翌朝、鳥の声で目を覚ました。

 扉を開けると、そこには箱が置かれていた。
 いつもより、少しだけ大きい。

「……遅れただけね」

 中身を確認する。
 保存食、乾燥肉、油、布。量は、前回分を補う形になっている。

 遅れた分を、まとめて。

 理由の説明はない。
 謝罪の書付もない。

 それでいい。

 ファーファは必要な分だけ取り出し、棚に置いた。
 残りは、そのまま。

 遅れても、困らなかった。
 届いたからといって、感謝する必要もない。

 契約は、正確だった。

 王都では、何かが遅れると、必ず理由が求められる。
 説明がなければ、不誠実だと責められる。

 ここでは、遅れは遅れとして処理されるだけだ。

 遅れた。
 補われた。
 終わり。

 それ以上の意味づけは、要らない。

 ファーファ・ノクティスは、箱を棚に収め、椅子に腰掛けた。

 遅れても、困らない生活。

 それは、誰かに頼らない強さではない。
 誰かに縋らない誇りでもない。

 ただ、余白があるということだ。

 その余白の中で、
 彼女は今日も、何もせず、何も失わず、
 静かに一日を始めた。
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