32 / 40
32話 名付けない時間の流れ
しおりを挟む
32話 名付けない時間の流れ
朝、ファーファは窓辺に差し込む光で目を覚ました。
光は細く、柔らかい。時間を告げる角度でもなければ、起床を促す強さでもない。けれど、十分だった。ここでは、時間は知らせるものではなく、染み込むものだ。
寝台の上で、少しだけ身を起こす。胸の奥に、急かされる感覚はない。今日が何曜日かも、何日かも、思い出そうとしない。思い出さないという選択を、わざわざ選ぶ必要もない。名前を付けなければ、時間は重くならない。
外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、山は静かだ。鳥の声が一つ、遠くで途切れた。風は弱く、影は短い。
箱は、置かれていた。
いつもと同じ場所。
だが、今日は少しだけ、木箱の角に印が付いている。擦れた跡だ。運ぶときに、どこかで当たったのだろう。傷と呼ぶほどではない。
「……問題なし」
そう呟いて、箱を中へ運ぶ。蓋を開けると、中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。配置はいつも通りだ。過剰な調整はない。必要なことだけが、淡々と行われている。
必要な分を棚に置き、残りは箱に戻す。今日は、棚の高さをほんの少しだけ変えた。日中の湿度が上がる予報はないが、空気の流れを良くしておくに越したことはない。数分の作業で、未来の面倒を減らす。
それは計画ではない。
予感に近い。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を注ぐ音が静かだった。器の縁に当たる音が、ほとんど響かない。椅子に腰掛け、カップを手に取る。温度は穏やかで、飲みやすい。
時間は、ここで名付けられない。
朝、昼、夕方、夜。
その区切りはあるが、意味は薄い。
「この時間にはこれをする」という約束がないからだ。
午前中、本を開く。今日は一節だけ読んで閉じた。続きを読みたい気持ちは、少しあった。だが、読みたい気持ちに従う義務はない。本は逃げない。時間も、急がない。
昼、簡単な食事を取る。今日は量を少なめにした。身体がそれでいいと言っていたからだ。食事に名前を付けないと、満腹も空腹も、過剰にならない。
食後、椅子に座り、外を見る。雲がゆっくりと形を変え、影が地面を移動していく。その速度を測ろうとは思わない。測ったところで、使い道がない。
王都では、時間は資源だった。
管理され、配分され、評価の対象になった。
ここでは、時間はただ流れる。
午後、外に出る。家の周囲を一回りし、足元を確かめる。昨日整えた場所は、崩れていない。水の流れも問題ない。確認は短く、満足も短い。
――今日は、特別なことが何もない。
それを「退屈」と呼ぶ言葉は、ここにはない。
名付けなければ、感情は増幅しない。
夕方、火を入れるか迷い、今日は入れなかった。まだ空気が冷え切っていない。迷いは数秒で終わる。迷いを引きずらないことも、ここで身についた習慣だ。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
今日という一日には、
目標も、成果も、記念もない。
だが、確かに流れた。
確かに続いた。
ファーファ・ノクティスは、
名付けない時間の流れの中で、
自分が摩耗しないことを知っている。
時間に名前を付けなければ、
比べる必要がなくなる。
比べなければ、焦りも生まれない。
名付けないまま、
ただ流れる。
それが、この場所での、
最も自然な一日の終わりだった。
朝、ファーファは窓辺に差し込む光で目を覚ました。
光は細く、柔らかい。時間を告げる角度でもなければ、起床を促す強さでもない。けれど、十分だった。ここでは、時間は知らせるものではなく、染み込むものだ。
寝台の上で、少しだけ身を起こす。胸の奥に、急かされる感覚はない。今日が何曜日かも、何日かも、思い出そうとしない。思い出さないという選択を、わざわざ選ぶ必要もない。名前を付けなければ、時間は重くならない。
外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、山は静かだ。鳥の声が一つ、遠くで途切れた。風は弱く、影は短い。
箱は、置かれていた。
いつもと同じ場所。
だが、今日は少しだけ、木箱の角に印が付いている。擦れた跡だ。運ぶときに、どこかで当たったのだろう。傷と呼ぶほどではない。
「……問題なし」
そう呟いて、箱を中へ運ぶ。蓋を開けると、中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。配置はいつも通りだ。過剰な調整はない。必要なことだけが、淡々と行われている。
必要な分を棚に置き、残りは箱に戻す。今日は、棚の高さをほんの少しだけ変えた。日中の湿度が上がる予報はないが、空気の流れを良くしておくに越したことはない。数分の作業で、未来の面倒を減らす。
それは計画ではない。
予感に近い。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を注ぐ音が静かだった。器の縁に当たる音が、ほとんど響かない。椅子に腰掛け、カップを手に取る。温度は穏やかで、飲みやすい。
時間は、ここで名付けられない。
朝、昼、夕方、夜。
その区切りはあるが、意味は薄い。
「この時間にはこれをする」という約束がないからだ。
午前中、本を開く。今日は一節だけ読んで閉じた。続きを読みたい気持ちは、少しあった。だが、読みたい気持ちに従う義務はない。本は逃げない。時間も、急がない。
昼、簡単な食事を取る。今日は量を少なめにした。身体がそれでいいと言っていたからだ。食事に名前を付けないと、満腹も空腹も、過剰にならない。
食後、椅子に座り、外を見る。雲がゆっくりと形を変え、影が地面を移動していく。その速度を測ろうとは思わない。測ったところで、使い道がない。
王都では、時間は資源だった。
管理され、配分され、評価の対象になった。
ここでは、時間はただ流れる。
午後、外に出る。家の周囲を一回りし、足元を確かめる。昨日整えた場所は、崩れていない。水の流れも問題ない。確認は短く、満足も短い。
――今日は、特別なことが何もない。
それを「退屈」と呼ぶ言葉は、ここにはない。
名付けなければ、感情は増幅しない。
夕方、火を入れるか迷い、今日は入れなかった。まだ空気が冷え切っていない。迷いは数秒で終わる。迷いを引きずらないことも、ここで身についた習慣だ。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
今日という一日には、
目標も、成果も、記念もない。
だが、確かに流れた。
確かに続いた。
ファーファ・ノクティスは、
名付けない時間の流れの中で、
自分が摩耗しないことを知っている。
時間に名前を付けなければ、
比べる必要がなくなる。
比べなければ、焦りも生まれない。
名付けないまま、
ただ流れる。
それが、この場所での、
最も自然な一日の終わりだった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。
椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」
ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。
ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。
今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって?
これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。
さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら?
――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで
ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。
辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。
この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。
「リリアーナ……本当に、君なのか」
――来た。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。
振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。
「……お久しぶりですね、エリオット様」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる