『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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31話 静けさが積もる場所

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31話 静けさが積もる場所

 朝、ファーファは目を覚ましたあと、すぐに起き上がらなかった。

 理由は単純だ。
 静けさが、まだ部屋に残っていたから。

 夜と朝の境目にあるこの時間は、山が最も静かになる。鳥はまだ本格的に鳴かず、風も動かない。人の世界で言えば、誰も起きていない時間帯だ。ここでは、その「誰も」が、最初から存在しない。

 寝台の上で、呼吸をひとつ整える。
 胸の奥に、余計な緊張はない。

 ――今日も、何も起こらないだろう。

 それを予測ではなく、感覚として受け取る。

 やがて体を起こし、外套を羽織る。扉を開けると、朝の空気が静かに流れ込んできた。冷たさはあるが、刺すほどではない。山は変わらず、そこにある。

 箱は、置かれていた。

 いつもより、少しだけ影の位置が違う。
 それだけで、朝の時間が分かる。

 箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。構成は変わらない。だが今日は、包みの間に薄い木片が挟まれている。湿気を逃がすためのものだ。

「……積もってるのね」

 誰に向けた言葉でもない。
 工夫が、少しずつ積み重なっている。

 それは好意ではない。
 評価を求める行為でもない。

 ただ、変わらない生活を維持するための、無言の調整だ。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。残りは箱に戻す。今日は、棚の奥に置いていた布を一枚手前に出した。乾き具合を均等にするためだ。やることは小さいが、やらない理由もない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯の音がよく響いた。空気が澄んでいる証拠だ。椅子に腰掛け、カップを手に取る。香りは控えめで、主張しない。

 静けさは、突然できるものではない。
 毎日、少しずつ積もっていく。

 王都では、静けさは「間違い」だった。
 何も起きない時間は、怠慢か停滞と見なされた。だから人は、無理に会話を作り、用事を増やし、騒がしさで空白を埋めた。

 ここでは、逆だ。

 空白が積もるほど、
 生活は安定する。

 午前中、本を開く。今日は同じ頁を何度か読み返した。内容を理解することより、視線を文字に預ける感覚を楽しむ。理解は後からついてくるし、ついてこなくても困らない。

 昼、簡単な食事を取る。今日は少し温かいものが欲しくなり、スープを多めに作った。分量は感覚で決める。失敗しても、誰も困らない。

 食後、椅子に座ったまま、外を見る。
 光が、ゆっくりと山の斜面を移動していく。

 ――ここは、静けさが溜まる場所だ。

 人が少ないからではない。
 人がいないからでもない。

 判断が少なく、
 説明が要らず、
 期待が持ち込まれないからだ。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、地面の状態を確認する。昨日整えた場所は、問題なく機能している。水は溜まらず、足元も安定している。

 「何も問題がない」という事実は、
 それ自体が成果だ。

 夕方、火を入れるかどうか迷い、今日は入れた。日が沈むのが少し早い。判断は短く、理由は単純だ。寒くなる前に、温めておく。それだけ。

 炎を見ながら、ファーファは思う。

 ――私は、何かを積み上げている。

 功績でも、実績でもない。
 数字にも、言葉にもならないもの。

 静けさ。
 余白。
 判断しなくていい時間。

 それらが、確かにここに積もっている。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、派手な出来事はなかった。
 誰も来ず、
 誰も呼ばず、
 何も奪われなかった。

 ファーファ・ノクティスは、
 静けさが積もる場所で、
 それを減らさないよう、
 ただ静かに暮らしている。

 積もった静けさは、
 いずれ彼女自身になる。

 そう思っても、
 期待はしない。

 静けさは、
 期待せずに積もるものだからだ。
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