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32話 名付けない時間の流れ
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32話 名付けない時間の流れ
朝、ファーファは窓辺に差し込む光で目を覚ました。
光は細く、柔らかい。時間を告げる角度でもなければ、起床を促す強さでもない。けれど、十分だった。ここでは、時間は知らせるものではなく、染み込むものだ。
寝台の上で、少しだけ身を起こす。胸の奥に、急かされる感覚はない。今日が何曜日かも、何日かも、思い出そうとしない。思い出さないという選択を、わざわざ選ぶ必要もない。名前を付けなければ、時間は重くならない。
外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、山は静かだ。鳥の声が一つ、遠くで途切れた。風は弱く、影は短い。
箱は、置かれていた。
いつもと同じ場所。
だが、今日は少しだけ、木箱の角に印が付いている。擦れた跡だ。運ぶときに、どこかで当たったのだろう。傷と呼ぶほどではない。
「……問題なし」
そう呟いて、箱を中へ運ぶ。蓋を開けると、中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。配置はいつも通りだ。過剰な調整はない。必要なことだけが、淡々と行われている。
必要な分を棚に置き、残りは箱に戻す。今日は、棚の高さをほんの少しだけ変えた。日中の湿度が上がる予報はないが、空気の流れを良くしておくに越したことはない。数分の作業で、未来の面倒を減らす。
それは計画ではない。
予感に近い。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を注ぐ音が静かだった。器の縁に当たる音が、ほとんど響かない。椅子に腰掛け、カップを手に取る。温度は穏やかで、飲みやすい。
時間は、ここで名付けられない。
朝、昼、夕方、夜。
その区切りはあるが、意味は薄い。
「この時間にはこれをする」という約束がないからだ。
午前中、本を開く。今日は一節だけ読んで閉じた。続きを読みたい気持ちは、少しあった。だが、読みたい気持ちに従う義務はない。本は逃げない。時間も、急がない。
昼、簡単な食事を取る。今日は量を少なめにした。身体がそれでいいと言っていたからだ。食事に名前を付けないと、満腹も空腹も、過剰にならない。
食後、椅子に座り、外を見る。雲がゆっくりと形を変え、影が地面を移動していく。その速度を測ろうとは思わない。測ったところで、使い道がない。
王都では、時間は資源だった。
管理され、配分され、評価の対象になった。
ここでは、時間はただ流れる。
午後、外に出る。家の周囲を一回りし、足元を確かめる。昨日整えた場所は、崩れていない。水の流れも問題ない。確認は短く、満足も短い。
――今日は、特別なことが何もない。
それを「退屈」と呼ぶ言葉は、ここにはない。
名付けなければ、感情は増幅しない。
夕方、火を入れるか迷い、今日は入れなかった。まだ空気が冷え切っていない。迷いは数秒で終わる。迷いを引きずらないことも、ここで身についた習慣だ。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
今日という一日には、
目標も、成果も、記念もない。
だが、確かに流れた。
確かに続いた。
ファーファ・ノクティスは、
名付けない時間の流れの中で、
自分が摩耗しないことを知っている。
時間に名前を付けなければ、
比べる必要がなくなる。
比べなければ、焦りも生まれない。
名付けないまま、
ただ流れる。
それが、この場所での、
最も自然な一日の終わりだった。
朝、ファーファは窓辺に差し込む光で目を覚ました。
光は細く、柔らかい。時間を告げる角度でもなければ、起床を促す強さでもない。けれど、十分だった。ここでは、時間は知らせるものではなく、染み込むものだ。
寝台の上で、少しだけ身を起こす。胸の奥に、急かされる感覚はない。今日が何曜日かも、何日かも、思い出そうとしない。思い出さないという選択を、わざわざ選ぶ必要もない。名前を付けなければ、時間は重くならない。
外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、山は静かだ。鳥の声が一つ、遠くで途切れた。風は弱く、影は短い。
箱は、置かれていた。
いつもと同じ場所。
だが、今日は少しだけ、木箱の角に印が付いている。擦れた跡だ。運ぶときに、どこかで当たったのだろう。傷と呼ぶほどではない。
「……問題なし」
そう呟いて、箱を中へ運ぶ。蓋を開けると、中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。配置はいつも通りだ。過剰な調整はない。必要なことだけが、淡々と行われている。
必要な分を棚に置き、残りは箱に戻す。今日は、棚の高さをほんの少しだけ変えた。日中の湿度が上がる予報はないが、空気の流れを良くしておくに越したことはない。数分の作業で、未来の面倒を減らす。
それは計画ではない。
予感に近い。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を注ぐ音が静かだった。器の縁に当たる音が、ほとんど響かない。椅子に腰掛け、カップを手に取る。温度は穏やかで、飲みやすい。
時間は、ここで名付けられない。
朝、昼、夕方、夜。
その区切りはあるが、意味は薄い。
「この時間にはこれをする」という約束がないからだ。
午前中、本を開く。今日は一節だけ読んで閉じた。続きを読みたい気持ちは、少しあった。だが、読みたい気持ちに従う義務はない。本は逃げない。時間も、急がない。
昼、簡単な食事を取る。今日は量を少なめにした。身体がそれでいいと言っていたからだ。食事に名前を付けないと、満腹も空腹も、過剰にならない。
食後、椅子に座り、外を見る。雲がゆっくりと形を変え、影が地面を移動していく。その速度を測ろうとは思わない。測ったところで、使い道がない。
王都では、時間は資源だった。
管理され、配分され、評価の対象になった。
ここでは、時間はただ流れる。
午後、外に出る。家の周囲を一回りし、足元を確かめる。昨日整えた場所は、崩れていない。水の流れも問題ない。確認は短く、満足も短い。
――今日は、特別なことが何もない。
それを「退屈」と呼ぶ言葉は、ここにはない。
名付けなければ、感情は増幅しない。
夕方、火を入れるか迷い、今日は入れなかった。まだ空気が冷え切っていない。迷いは数秒で終わる。迷いを引きずらないことも、ここで身についた習慣だ。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
今日という一日には、
目標も、成果も、記念もない。
だが、確かに流れた。
確かに続いた。
ファーファ・ノクティスは、
名付けない時間の流れの中で、
自分が摩耗しないことを知っている。
時間に名前を付けなければ、
比べる必要がなくなる。
比べなければ、焦りも生まれない。
名付けないまま、
ただ流れる。
それが、この場所での、
最も自然な一日の終わりだった。
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