『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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33話 静けさに慣れるという変化

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33話 静けさに慣れるという変化

 朝、ファーファは自分が「慣れている」ことに気づいた。

 それは突然の発見ではない。違和感が消えたことに、あとから気づくような感覚だ。目を覚ましたとき、胸の奥に引っかかっていたはずの小さな緊張が、もう見当たらない。代わりにあるのは、呼吸がそのまま流れていく感触だけだった。

 慣れとは、気づかないうちに進む変化だ。

 寝台から起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、朝の空気が穏やかに流れ込む。冷たすぎず、湿りすぎず。山はいつもと同じ姿で、そこにいる。

 箱は、置かれていた。

 位置も、向きも、いつも通り。
 それを見て、心が動かない。

 以前は、心が動かないこと自体に、どこか不安を覚えた。喜びも不安もない状態を、空虚だと感じていたのだ。だが今は違う。心が動かないのは、必要がないからだと分かる。

 箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。変わらない内容。変わらない量。変わらない詰め方。誰かが「変えない」という判断を続けている。

 それが、ここでの安定を支えている。

 必要な分だけ棚に置き、残りは箱に戻す。今日は、棚の奥に置いていたものを手前に出し、手前にあったものを奥に戻した。順番を入れ替えただけだが、手の動きが少し楽になる。

 効率のためではない。
 疲れないためだ。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は香りを強く感じた。季節のせいか、体調のせいか、分からない。だが、理由を探す必要もなかった。感じたままを受け取る。

 椅子に腰掛け、カップを手に取る。温度はちょうどいい。ここでもまた、判断が要らない。

 午前中、本を開く。今日は読み進める気にならず、数行で閉じた。閉じたことに、引け目はない。読まなかった時間は、失われていない。

 王都では、慣れは油断と同義だった。
 油断は、罰の入口だった。

 ここでは、慣れは安定だ。

 昼、簡単な食事を取る。今日は少し量を増やした。身体がそう求めたからだ。昨日と同じである必要はない。変えることも、変えないことも、どちらも選べる。

 食後、椅子に座り、外を見る。光がゆっくりと斜面を移動していく。動きを追わなくても、時間は過ぎる。

 ――私は、ここに慣れてしまった。

 その事実は、驚きではなかった。
 恐れでも、後悔でもない。

 ただ、変化のひとつだ。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、地面の状態を確認する。昨日の調整は、問題なく機能している。確認は短く、満足も短い。

 慣れているからこそ、
 余計な確認をしなくて済む。

 夕方、空気が冷え始める。火を入れるか迷い、今日は少しだけ入れた。強く燃やさず、室内の空気を整える程度だ。判断は迷いを含んでいたが、迷いは長引かなかった。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 ここに来たばかりの頃、静けさは異物だった。
 今は、背景になっている。

 背景になったということは、
 それが日常になったということだ。

 ファーファ・ノクティスは、
 静けさに慣れるという変化を、
 進歩とも、後退とも呼ばず、
 ただ自然な流れとして受け入れている。

 慣れは、止まることではない。
 摩耗しない速度を見つけた、というだけだ。

 その速度のまま、
 今日も一日は終わる。

 静けさは、もう特別ではない。
 それが、ここでの最大の変化だった。
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