『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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34話 それでも世界は動いている

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34話 それでも世界は動いている

 朝、ファーファは外の音で目を覚ました。

 音と言っても、はっきりしたものではない。木々がわずかに擦れる音と、遠くで小石が転がるような、気配に近い揺れだ。山は静かだが、完全に止まっているわけではない。その事実を、身体が先に受け取っていた。

 寝台の上で一度、深く息を吸う。
 空気は昨日より少し冷たい。

 起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、空は薄曇りで、雲がゆっくりと流れている。風は弱いが、方向が一定ではない。変化は小さいが、確実にある。

 箱は、置かれていた。

 位置は同じだが、今日は地面に敷かれた布の端が、少しだけ折り返されている。風向きの変化を考えた結果だろう。わずかな違いに、判断の痕跡が残っている。

「……ちゃんと、動いてる」

 誰に向けた言葉でもない。
 世界が、という意味だ。

 箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。構成は変わらないが、今日は油の容器が一段下に置かれている。重心を低くするためだろう。運搬時の安定を考えた配置だ。

 変わらないために、
 変えられている。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。残りは箱に戻す。今日は、棚の足元に小さな木片を挟んだ。床がわずかに歪んでいるのを、昨日感じていたからだ。これで、揺れは抑えられる。

 ほんの一手間。
 だが、世界はそれに応える。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を注ぐ前に、少しだけ間を置いた。沸きたては、身体に強すぎる。少し待つ。それだけで、飲みやすくなる。

 椅子に腰掛け、カップを手に取る。香りは穏やかで、温度も適切だ。五感が、特に指示を出さなくても受け取れる状態にある。

 ――何もしないでいるようで、
 ――世界は、ちゃんと動いている。

 午前中、本を開く。今日は数頁進めたが、途中で止めた。文字が頭に入らないわけではない。ただ、続きを急ぐ理由がなかった。止める判断も、動きのひとつだ。

 王都では、動くことが評価された。
 結果が見える動きだけが。

 ここでは、動かない選択も、
 世界の動きに含まれる。

 昼、簡単な食事を取る。今日は食後に、少し長く水を飲んだ。空気が乾いている。喉がそれを教えてくれた。判断は即座で、迷いはない。

 食後、椅子に座り、外を見る。雲の形が、朝とは変わっている。変わったが、劇的ではない。変化が穏やかであることは、安心につながる。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、地面の状態を確かめる。風向きのせいか、落ち葉が一箇所に集まっている。放っておいても問題はないが、今日は少しだけ散らした。

 掃除ではない。
 流れを戻すだけだ。

 ――世界は、放っておくと偏る。

 だから、ほんの少し触れる。
 触れすぎない。
 介入しすぎない。

 夕方、空気が変わる。雲が厚くなり、光が弱まる。雨の気配はないが、夜は冷えそうだ。火を入れるか迷い、今日は入れた。強くは燃やさず、室内の空気を整える程度に。

 炎は静かに揺れ、音も控えめだ。

 ファーファは炎を見つめながら、思う。

 ――私は、止まっているわけじゃない。

 ただ、
 世界の速度に合わせているだけだ。

 走らない。
 競わない。
 だが、世界から切り離されてもいない。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、大きな出来事はなかった。
 だが、雲は流れ、
 風は向きを変え、
 人の手は静かに働いた。

 ファーファ・ノクティスは、
 それでも世界は動いているという事実を、
 安心として受け取っている。

 何かを成さなくても、
 世界は続く。
 続いている世界の中に、
 自分も含まれている。

 その感覚が、
 今日も彼女を、
 静かな眠りへと導いた。
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