『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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35話 それでも、何も起こらない朝

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35話 それでも、何も起こらない朝

 朝は、何事もなく訪れた。

 それが、ファーファにとっては少しだけ可笑しかった。
 これだけ長く静かな生活を続けていれば、「そろそろ何か起こるのではないか」と、物語的な期待を抱く人間もいるだろう。

 だが、現実は違う。

 何も起こらない朝は、昨日と同じ顔でやって来る。

 鳥の声。
 木々のざわめき。
 空気の温度。

 すべてが昨日の延長であり、連続しているだけだった。

 ファーファは寝台から起き上がり、特に気合も入れずに身支度を整える。鏡はあるが、覗き込むことはほとんどない。身だしなみは整っていれば十分で、「どう見られるか」を考える必要はない。

 扉を開けると、山は今日もそこにあった。
 当然のように。
 約束されたように。

 箱も、置かれている。

 位置は同じ。布も同じ。
 中身を想像する必要すらない。

「……平和ね」

 小さく呟く。
 嫌味ではない。皮肉でもない。
 本心だった。

 箱を中に運び、蓋を開ける。
 保存食、乾燥野菜、油、布。

 変わらない内容に、変わらない配置。
 人の手が介在しているはずなのに、そこには「主張」がない。

 ――実に、優秀な仕事だ。

 かつての王都であれば、ここまで目立たない仕事は評価されなかっただろう。成果を誇れず、忠誠を示す演出もなく、感謝を引き出す仕掛けもない。

 だが、ファーファは知っている。

 本当に上手な仕事ほど、
 「何も起こらない」という結果を生む。

 必要な分だけ棚に移し、残りは箱に戻す。
 今日は少し余裕がある。物資は減っていない。つまり、消費も穏やかだ。

 ――この生活、効率が良すぎる。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。
 今日は何となく、窓際で飲むことにした。

 光は柔らかく、雲は薄い。
 風も強くない。

 「事件が起きる気配、ゼロね」

 そう言って、カップに口を付ける。

 王都で暮らしていた頃、
 「何も起こらない一日」は存在しなかった。

 誰かが誰かを陥れ、
 誰かが誰かを評価し、
 誰かが誰かの失敗を待っていた。

 静かな日は、次の嵐の前触れだった。

 だが、ここでは違う。

 何も起こらない日は、
 ただの「何も起こらない日」だ。

 午前中、本を読む。
 今日は少し集中できた。十数頁ほど進める。内容は覚えていないが、それでいい。覚えるために読むわけではない。

 読むという行為そのものが、
 時間をやさしく消費してくれる。

 昼、簡単な食事を取る。
 咀嚼し、飲み込み、満たされる。

 それだけ。

 食後、椅子に座り、外を見る。
 木々は揺れているが、騒がしくはない。

 ――誰も、何も、私を急かさない。

 それが、こんなにも楽だとは思わなかった。

 午後、外に出る。
 家の周囲を歩き、地面を踏みしめる。足元は安定している。危険はない。警戒も不要。

 「安全って、退屈ね」

 だが、その退屈さが、今は心地いい。

 夕方、空が少し赤く染まる。
 火を入れるか迷い、今日は入れなかった。寒くない。必要がないなら、やらない。

 それが、ここでの判断基準だ。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、大事件は起こらなかった。
 陰謀も、追手も、ドラマチックな再会もない。

 だが、ファーファは満足していた。

 何も起こらないということは、
 誰かが、どこかで、
 余計なことをしていないという証拠だ。

 それは、尊い。

 ファーファ・ノクティスは、
 それでも、何も起こらない朝を、
 祝福するように眠りについた。

 何も起こらない日々こそ、
 彼女が選び取った、
 最高の結果だったのだから。
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