『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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37話 何も知らないままでいい

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37話 何も知らないままでいい

 朝は、いつもより少し遅く始まった。

 正確には、太陽の位置が変わったわけでも、山の時間が狂ったわけでもない。ただ、ファーファが目を覚ましたのが、ほんの少し遅かった。それだけの違いだ。

 寝台の上で、しばらく動かずに天井を眺める。

 眠気は残っていない。
 体調も悪くない。
 急ぐ理由も、起きる義務もない。

「……まあ、いいか」

 起きる、という行為に理由を求めない。
 それが、ここでの流儀だった。

 やがて身体を起こし、外套を羽織る。扉を開けると、空は高く、雲は少ない。風は弱く、朝の冷え込みも穏やかだった。

 箱は、置かれている。

 少しだけ位置が内側に寄っている。昨夜、風が強まったのだろう。倒れないよう、配慮された結果だ。誰かが考え、判断し、実行した痕跡。

 だが、その「誰か」の顔を、ファーファは知らない。

 知ろうとも、思わない。

 箱を中に運び、蓋を開ける。
 保存食、乾燥野菜、油、布。

 今日も過不足はない。
 必要十分、という言葉が、ここまで正確に当てはまる状況も珍しい。

 棚に必要分を移しながら、ふと思う。

 ――私は、何も知らない。

 物資を運んでいる人間の名前も、
 どんな会話が交わされているのかも、
 辺境伯が今、何を考えているのかも。

 王都にいた頃なら、
 それは「致命的な情報不足」だった。

 知らないことは、
 隙であり、
 弱点であり、
 利用される原因だった。

 だが、今は違う。

 知らないことで、
 傷つかない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は少し濃く出た。だが、飲めないほどではない。そのまま口を付ける。苦味が強いが、不快ではない。

 「情報って、味に似てるわね」

 多すぎれば苦く、
 少なすぎれば物足りない。

 そして、
 取らなくても、生きていける。

 午前中、本を開く。
 今日は文字を追う気分ではなかった。数頁で閉じ、代わりに窓の外を見る。

 空は広い。
 山は静かだ。

 ――王都では、空はいつも狭かった。

 建物と立場と視線に区切られ、
 誰が何を知っているかで、
 世界の形が変わった。

 今は、知らなくても、
 世界は崩れない。

 昼、簡単な食事を取る。今日は少し時間をかけた。噛む回数を増やし、飲み込むまでを意識する。それだけで、満足感が変わる。

 効率より、感覚。
 評価より、体調。

 午後、外に出る。
 山道を少し歩く。遠くまで行く必要はない。足元の感触を確かめ、空気を吸い、戻る。それだけで十分だった。

 歩きながら、思う。

 ――もし、今ここに追手が来たら?

 想像してみる。
 だが、恐怖は湧かない。

 知らないからだ。
 来るかどうかも、
 来たとしてどうなるかも。

 知らないままでいることで、
 想像の暴走が止まっている。

 夕方、空が少し赤く染まる。
 火を入れるか迷い、今日は入れなかった。寒くない。必要がない。

 判断は単純だ。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 王都で生きていた頃、
 「知らない」という状態は、
 常に不安を伴っていた。

 だが、今は違う。

 知らないから、
 何も背負わなくていい。
 何も選ばなくていい。
 何も争わなくていい。

 ファーファ・ノクティスは、
 何も知らないままでいいという選択を、
 今日も静かに続けている。

 世界のすべてを把握しなくても、
 生きるには、
 これで十分だった。
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