『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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39話 誰にも感謝しないという選択

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39話 誰にも感謝しないという選択

 朝、目を覚ました瞬間、ファーファは自分の気分が少しだけ穏やかであることに気づいた。

 理由は分からない。
 だが、分からないままでいい、と思えた。

 寝台から起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、空は薄く霞み、山の輪郭が柔らかく見える。昨日より湿り気を含んだ空気だが、不快ではない。

 箱は、置かれていた。

 いつも通りの位置。
 いつも通りの布。

 昨日の木札はない。
 つまり、特別な手順は終わったということだ。

 ファーファは箱を中へ運び、蓋を開ける。
 保存食、乾燥野菜、油、布。

 完全に、通常運転。

 ――よし。

 それだけで、心が落ち着く。
 変化があってもいいが、変化が終わることも重要だった。

 棚に必要な分を移しながら、ふと、考えが浮かぶ。

 ――私は、この状況に、感謝すべきなのかしら。

 物資は届く。
 秘匿は守られている。
 生活は安定している。

 王都的な感覚で言えば、
 「恩義」が発生していてもおかしくない。

 だが、ファーファは首を横に振った。

 違う。

 これは施しではない。
 慈悲でもない。
 好意ですらない。

 契約だ。

 契約が履行されているだけで、
 そこに感謝を差し挟む必要はない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。
 今日は少し丁寧に、葉の量を量った。

 カップを手に取り、香りを確かめる。

 ――感謝って、便利な言葉よね。

 だが同時に、
 危険な言葉でもある。

 感謝は、関係を生む。
 関係は、期待を生む。
 期待は、役割を生む。

 役割は、
 再び自分を縛る。

 王都で生きていた頃、
 ファーファは「感謝する側」であることを求められ続けた。

 援助への感謝。
 配慮への感謝。
 指導への感謝。

 そのすべてが、
 「従順であること」の証明だった。

 ――もう、いらない。

 午前中、本を読む。
 今日はあまり進まなかった。だが、それを失敗だとは思わない。集中できない日もある。それだけのことだ。

 昼、簡単な食事を取る。
 噛みながら、ふと笑いそうになる。

 誰にも「ありがとう」と言わずに、
 こんなにも満たされている。

 それが、少しだけ新鮮だった。

 午後、外に出る。
 家の周囲を歩き、地面の様子を確認する。湿った土は柔らかく、足跡が残りやすい。今日は遠くまで行かない方がいい。そう判断し、すぐに戻る。

 判断は、誰のためでもない。
 自分の生活を乱さないためだけだ。

 夕方、空が暗くなり始める。
 雨の気配がある。火を入れるか迷い、今日は入れた。湿気は体力を奪う。対処は早い方がいい。

 炎を見つめながら、ファーファは思う。

 ――感謝しないって、冷たいことじゃない。

 むしろ、
 相手を「役割」に閉じ込めないための距離だ。

 誰かを恩人にしない。
 誰かに借りを作らない。
 誰かに期待しない。

 その代わり、
 世界の仕組みだけを信じる。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、物資は届いた。
 今日も、生活は続いた。

 だが、
 誰かに頭を下げる必要はなかった。

 ファーファ・ノクティスは、
 誰にも感謝しないという選択を、
 静かに肯定しながら、目を閉じる。

 それは傲慢でも、
 忘恩でもない。

 ただ、
 もう一度、
 誰かの期待に生きないための、
 確かな一歩だった。
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