働かない令嬢は、すでに幸せです  ――婚約破棄? それより紅茶の時間をください

鷹 綾

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第31話 何もしない令嬢に、王都がざわつき始める

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第31話 何もしない令嬢に、王都がざわつき始める

 その噂は、私の知らないところで静かに広がっていた。

「最近、アーデルハイド公爵領の動きが妙に滑らかだ」 「内部抗争がないらしい」 「責任の押し付け合いが起きていないとか……」

 ――などという、
 貴族社会では少々信じがたい話が。

 当の私はと言えば、
 午前中はテラスで紅茶を飲み、
 午後は日陰で読書、
 夕方にはぶどう園から届いた報告書に目を通すだけ。

(……今日も平和)

 そんなある日、
 マーガレットが少し緊張した面持ちでやって来た。

「お嬢様。
 王都より、視察団が来るそうです」

「……視察?」

 嫌な単語である。

「国王陛下の名で、
 “参考事例として”だそうで……」

 私は一瞬、目を閉じた。

(ああ、目立った)

 父が応接室で腕を組みながら言った。

「正式な監査ではない。
 だが、無視もできん」

「つまり、“何かしているように見せろ”ってこと?」

「……そうなるな」

 私は深く息を吐いた。

「お父様。
 私、何もしていないのだけれど」

「それが問題なのだ」

 数日後。

 王都からやってきたのは、
 若い官僚と、年配の記録官、
 そして護衛数名。

 いずれも、
 どこか疑うような目をしている。

「公爵令嬢レイラ様。
 本日はお時間をいただき感謝いたします」

「どうぞ。
 でも、特別なことは何もありませんわ」

「それを確認するために参りました」

 正直でよろしい。

 彼らは、
 倉庫、厨房、ぶどう園、
 加工場、商談記録――
 あらゆる場所を見て回った。

 私は同行しなかった。

「お嬢様はご案内なさらないのですか?」

「ええ。
 現場の人の邪魔になるもの」

 代わりに、
 各部署の代表が対応する。

 彼らは、
 よどみなく説明した。

「判断は現場で行います」 「迷った場合は止めます」 「責任は個人ではなく、仕組みにあります」

 視察団の表情が、
 徐々に変わっていくのが分かった。

「……誰が最終決定を?」

「基本は、不要です」 「必要な場合のみ、公爵家に確認します」

 官僚は、
 困惑を隠せない様子だった。

「それでは……
 令嬢は、何を?」

 その問いに、
 マーガレットが微笑んで答えた。

「お嬢様は、
 判断しません」

 沈黙。

「……では、統率は?」

「していません」

 さらに沈黙。

 視察が終わった後、
 応接室で簡単な報告会が開かれた。

 若い官僚が、
 正直に言った。

「理解に苦しみます。
 しかし――
 効率は、非常に高い」

 記録官も頷く。

「争いがない。
 責任転嫁もない。
 異常と言えば異常です」

 私は紅茶を一口飲んでから言った。

「“何もしない”というのは、
 “放棄”ではありません」

 二人がこちらを見る。

「信じて、任せて、
 壊れそうな時だけ止める。
 それだけですわ」

 官僚は、
 しばらく黙り込み――
 やがて苦笑した。

「王都では、
 真似できそうにありません」

「でしょうね」

 その日の夜。

 私は日記に書いた。

『視察団が来た。
 何もしていないことが、
 一番驚かれた。
 でも、これでいい。
 私は、私の役割をしている』

 数日後。

 王都での噂は、
 さらに形を変える。

「アーデルハイド公爵令嬢は、
 何もしないことで
 全体を動かしているらしい」

「怠け者か、
 天才か……」

 私はその話を聞いて、
 少しだけ笑った。

(どっちでもいいわ)

 働かない。
 でも、逃げない。

 それが、
 私の選んだ生き方なのだから。

 ――そしてこの“違和感”は、
 やがて王都全体を
 静かに揺らしていくことになる。
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