『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

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第5話「肯定だけが残る部屋」

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第5話「肯定だけが残る部屋」

 変化は、音を立てて起きたわけではなかった。

 むしろ、あまりにも静かで、
 気づいた時には――もう元には戻れない類のものだった。

 オスカー・フォン・ルーヴェンは、ここ数日、妙に機嫌が良かった。

「最近、城が静かでいい」

 そう言って、彼は椅子に深く腰掛ける。

 執務室の窓からは、王都が一望できる。
 変わらぬ風景。
 だが、室内の空気は確実に変わっていた。

 以前は、ここには必ず“声”があった。

 書類の山を前に、
 要点を整理する声。
 危険な点を指摘する声。
 曖昧な判断を止める声。

 だが、今はない。

 代わりにいるのは、フローラ・エヴァンスだ。

 彼女は、オスカーの正面には座らない。
 少し斜め後ろ、視界の端に収まる位置。

 決して主張せず、
 決して遮らず、
 ただ、そこにいる。

「今日は、何をなさるご予定ですか?」

 柔らかな声。
 問いかけですらない、確認。

「ん? ああ……」

 オスカーは、机の上の書類を見下ろした。

 積まれているのは、各国から届いた報告書、請願書、調停案。
 本来であれば、どれも目を通すべき重要文書だ。

 だが。

「今日は、これだけでいい」

 彼は、無造作に数枚を指で弾いた。

「他は、後でいいだろう」

 以前なら、
 “後で”が危険だと誰かが言った。
 だが、今は誰も言わない。

 フローラは、小さく頷いた。

「はい。殿下のお考えで」

 その言葉は、何度も聞いたはずなのに、
 オスカーの胸に、毎回心地よく染み込んでいく。

(……分かってくれる)

 彼は、そう思った。

(前は、違った)

 脳裏に浮かぶのは、マルティナの姿だ。

 書類を手に、
 静かな声で、
 しかし確実に“止める”女。

 ――それが、気に入らなかった。

(俺は、間違っていなかった)

 オスカーは、内心でそう繰り返す。

(あれは、俺を信用していなかったんだ)

 だが、その考えを、誰も訂正しない。

 フローラは、あくまで穏やかに言う。

「殿下は、お疲れなのです」
「責任が重すぎるのですよ」

 その言葉は、免罪符だった。

「そうだな……」

 オスカーは、深く息を吐く。

「俺は、背負いすぎていたのかもしれない」

 フローラは、何も言わない。
 肯定も、否定も。

 ただ、否定しない。

 それだけで十分だった。

 その日、ひとつの書簡が届いた。

 隣国との関税調整に関する文書だ。
 細かい条件変更が含まれており、
 慎重な精査が必要な案件。

「殿下、こちらは……」

 側近が、言いかけて口をつぐむ。

 フローラが、静かに首を振ったのを見たからだ。

 オスカーは、それに気づかなかった。

「後でいい」

 彼は、いつもの調子で言った。

「俺が決める」

 その“俺が決める”という言葉が、
 最近の彼の口癖になっていることを、
 本人だけが気づいていない。

 フローラは、ほんのわずかに微笑んだ。

(いい傾向)

 内心で、冷静に評価する。

(判断を、
 “自分のもの”だと思い込んでいる)

 それが、最も操りやすい状態だ。

 夜。

 執務室に残るのは、二人だけだった。

「今日は、もうお休みください」

 フローラが言う。

「え? まだ……」

「殿下は、十分にお働きになりました」

 その言葉に、オスカーは逆らわなかった。

 逆らう理由が、見つからなかった。

「……そうだな」

 彼は、立ち上がる。

「君が言うなら」

 その一言で、
 この関係の力関係が、完全に定まった。

 フローラは、オスカーの背中を見送りながら、
 静かに思う。

(書類を読まなくなった)
(判断を急ぐようになった)
(否定されることを、極端に嫌う)

(……完成しつつある)

 そして同時に。

 王城の別の場所。

 かつてマルティナが使っていた執務室は、
 今も空室のままだった。

 整理された机。
 何も置かれていない棚。

 そこには、
 止める者がいた痕跡だけが残っている。

 オスカーは、もう二度と、
 その部屋を訪れなかった。

 訪れる理由が、なくなったからだ。

 こうして。

 王太子の執務室から、
 最後の「否定」が消えた。

 残ったのは、
 肯定と、
 沈黙と、
 ――取り返しのつかない判断だけだった。


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