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第6話「署名の重さを、誰も教えなかった」
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第6話「署名の重さを、誰も教えなかった」
その書類は、分厚くもなければ、見た目に派手でもなかった。
だが――
後に、この一枚が「始まりだった」と記録されることになる。
「関税調整案……?」
オスカー・フォン・ルーヴェンは、机の上に差し出された文書を、気だるそうに眺めた。
隣国との交易条件の見直し。
年に一度は必ず行われる、定例の調整だ。
本来なら、
数日かけて条文を精査し、
複数の部署とすり合わせ、
王太子は“最終確認”だけを行う。
――本来なら。
「細かい話だな」
オスカーは、最初の数行を読んだだけで、文書を閉じた。
「数字ばかりで、正直退屈だ」
側近の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
「殿下、この案件は――」
そこで、声が止まった。
フローラ・エヴァンスが、何も言わずに立っていたからだ。
止めもしない。
促しもしない。
ただ、否定しない。
オスカーは、その沈黙を“任されている”と解釈した。
「俺が判断すればいい」
彼は、そう言ってペンを取った。
「毎年似たような内容だろう?」
「大差はない」
それは、事実ではない。
今回の調整案には、
関税率の算出基準そのものを変更する条項が含まれていた。
一見、数字が下がっているように見えて、
実際には自国に不利な条件が積み重なる構造だ。
だが、オスカーはそこまで読まない。
「殿下」
側近が、もう一度だけ口を開いた。
「この第三条の但し書きですが――」
「大丈夫だ」
オスカーは、被せるように言った。
「君は心配性すぎる」
その一言で、空気が凍る。
これ以上言えば、
自分が“否定する側”に回ることになる。
それは、今の王太子に嫌われる行為だった。
フローラは、ほんのわずかに目を伏せた。
それは、同意でも反対でもない。
ただの合図。
――続けていい。
オスカーは、署名欄に視線を落とした。
自分の名前。
自分の地位。
(俺が決める)
その意識だけが、頭の中にある。
ペン先が、紙に触れた。
さらり、と音もなく、
署名は完了した。
「これでいい」
オスカーは、満足げに言った。
「次は何だ?」
誰も、すぐには答えなかった。
それが、答えだった。
数日後。
影響は、静かに、しかし確実に現れ始めた。
港湾都市から、報告が上がる。
「輸入量が想定を超えて増加しています」
「国内産業が、価格競争で押されています」
次いで、商会からの陳情。
「関税の再検討を」
「このままでは、持ちません」
オスカーは、苛立ちを隠さなかった。
「なぜだ?」
「関税は下げたはずだろう?」
その“下げた”という認識自体が、誤りだった。
だが、誰も即座に説明できない。
説明すれば、
あの署名の責任が、
明確にオスカーに返ってくるからだ。
「殿下」
フローラが、初めて口を開いた。
柔らかく、静かな声。
「殿下は、最善を尽くされました」
その言葉は、慰めだった。
同時に、責任の固定でもある。
「状況が、想定と違っただけです」
オスカーは、その言葉に救われた気がした。
「……そうだな」
彼は、深く息を吐く。
「俺の判断が、間違っていたはずがない」
そう思いたかった。
そして、その思いを否定する者は、もういない。
夜。
フローラは、書類棚の前に立っていた。
今日署名された文書の控え。
その条文を、彼女は最初から最後まで、正確に把握している。
(予想通り)
内心で、冷静に評価する。
(この条文なら、
影響は段階的に広がる)
(すぐには“失敗”と断定されない)
それが重要だった。
即座に破綻すれば、
誰かが止めに入る。
だが、じわじわと効く失策は、
修正されにくい。
(次は、もっと大きい)
フローラは、静かに棚を閉じた。
一方。
遠い国の街角で、
マルティナ・ヴァインベルクは、商人たちの会話を耳にしていた。
「最近、あの国の関税が変わったらしい」
「動きが読めないな」
彼女は、足を止めずに思う。
(……やはり、来た)
予想していた通り。
驚きはない。
(でも)
彼女は、心の中で線を引く。
(もう、私の仕事ではない)
この判断を下したのは、
彼女ではない。
止める機会は、あった。
だが、それは――
彼女自身が、拒否された役割だった。
マルティナは、空を見上げる。
雲一つない、穏やかな空。
その下で、
王太子オスカー・フォン・ルーヴェンは、
まだ知らない。
たった一つの署名が、
次の破滅への道を、
確かに開いたことを。
---
その書類は、分厚くもなければ、見た目に派手でもなかった。
だが――
後に、この一枚が「始まりだった」と記録されることになる。
「関税調整案……?」
オスカー・フォン・ルーヴェンは、机の上に差し出された文書を、気だるそうに眺めた。
隣国との交易条件の見直し。
年に一度は必ず行われる、定例の調整だ。
本来なら、
数日かけて条文を精査し、
複数の部署とすり合わせ、
王太子は“最終確認”だけを行う。
――本来なら。
「細かい話だな」
オスカーは、最初の数行を読んだだけで、文書を閉じた。
「数字ばかりで、正直退屈だ」
側近の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
「殿下、この案件は――」
そこで、声が止まった。
フローラ・エヴァンスが、何も言わずに立っていたからだ。
止めもしない。
促しもしない。
ただ、否定しない。
オスカーは、その沈黙を“任されている”と解釈した。
「俺が判断すればいい」
彼は、そう言ってペンを取った。
「毎年似たような内容だろう?」
「大差はない」
それは、事実ではない。
今回の調整案には、
関税率の算出基準そのものを変更する条項が含まれていた。
一見、数字が下がっているように見えて、
実際には自国に不利な条件が積み重なる構造だ。
だが、オスカーはそこまで読まない。
「殿下」
側近が、もう一度だけ口を開いた。
「この第三条の但し書きですが――」
「大丈夫だ」
オスカーは、被せるように言った。
「君は心配性すぎる」
その一言で、空気が凍る。
これ以上言えば、
自分が“否定する側”に回ることになる。
それは、今の王太子に嫌われる行為だった。
フローラは、ほんのわずかに目を伏せた。
それは、同意でも反対でもない。
ただの合図。
――続けていい。
オスカーは、署名欄に視線を落とした。
自分の名前。
自分の地位。
(俺が決める)
その意識だけが、頭の中にある。
ペン先が、紙に触れた。
さらり、と音もなく、
署名は完了した。
「これでいい」
オスカーは、満足げに言った。
「次は何だ?」
誰も、すぐには答えなかった。
それが、答えだった。
数日後。
影響は、静かに、しかし確実に現れ始めた。
港湾都市から、報告が上がる。
「輸入量が想定を超えて増加しています」
「国内産業が、価格競争で押されています」
次いで、商会からの陳情。
「関税の再検討を」
「このままでは、持ちません」
オスカーは、苛立ちを隠さなかった。
「なぜだ?」
「関税は下げたはずだろう?」
その“下げた”という認識自体が、誤りだった。
だが、誰も即座に説明できない。
説明すれば、
あの署名の責任が、
明確にオスカーに返ってくるからだ。
「殿下」
フローラが、初めて口を開いた。
柔らかく、静かな声。
「殿下は、最善を尽くされました」
その言葉は、慰めだった。
同時に、責任の固定でもある。
「状況が、想定と違っただけです」
オスカーは、その言葉に救われた気がした。
「……そうだな」
彼は、深く息を吐く。
「俺の判断が、間違っていたはずがない」
そう思いたかった。
そして、その思いを否定する者は、もういない。
夜。
フローラは、書類棚の前に立っていた。
今日署名された文書の控え。
その条文を、彼女は最初から最後まで、正確に把握している。
(予想通り)
内心で、冷静に評価する。
(この条文なら、
影響は段階的に広がる)
(すぐには“失敗”と断定されない)
それが重要だった。
即座に破綻すれば、
誰かが止めに入る。
だが、じわじわと効く失策は、
修正されにくい。
(次は、もっと大きい)
フローラは、静かに棚を閉じた。
一方。
遠い国の街角で、
マルティナ・ヴァインベルクは、商人たちの会話を耳にしていた。
「最近、あの国の関税が変わったらしい」
「動きが読めないな」
彼女は、足を止めずに思う。
(……やはり、来た)
予想していた通り。
驚きはない。
(でも)
彼女は、心の中で線を引く。
(もう、私の仕事ではない)
この判断を下したのは、
彼女ではない。
止める機会は、あった。
だが、それは――
彼女自身が、拒否された役割だった。
マルティナは、空を見上げる。
雲一つない、穏やかな空。
その下で、
王太子オスカー・フォン・ルーヴェンは、
まだ知らない。
たった一つの署名が、
次の破滅への道を、
確かに開いたことを。
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