『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

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第11話 「調べるつもりは、なかった」

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第11話 「調べるつもりは、なかった」

 それは、疑念ですらなかった。

 単なる事務的な違和感。
 日常の中に、ふと引っかかった小さな棘。

「……この資料、どこから?」

 城の文書管理室で、若い書記官のエルンストは、手にした紙束を見下ろして首を傾げた。

「フローラ・エヴァンス様の経歴書です」

 隣にいた先輩書記官が、淡々と答える。

「婚約に際して提出された正式書類ですよ」

「……ええ、それは分かるんですが」

 エルンストは、ページをめくる手を止めた。

「記載が、少なすぎませんか?」

 それは事実だった。

 生誕地。
 教育歴。
 後見人の署名。

 必要最低限の情報は、すべて揃っている。
 形式的には、何の問題もない。

 だが――

「この方、十六歳から二十歳までの記録が、ほぼ空白です」

「……確かに」

 先輩書記官も、眉を寄せる。

「留学中、とだけありますね」

「ですが、留学先の学府名がありません」
「推薦状も、様式は整っていますが……」

 エルンストは、言葉を濁した。

「筆跡が、全部同じです」

 沈黙が落ちる。

 それは、決定的ではない。
 だが、偶然にしては、重なりすぎている。

「……深入りするな」

 先輩書記官は、小さく言った。

「今は、そういう空気じゃない」

 それが、城内の常識だった。

 調べること自体が、
 “疑う行為”と見なされかねない。

「分かっています」

 エルンストは、頷いた。

 彼は、正義感で動く人間ではない。
 むしろ、臆病なほど慎重だ。

 だからこそ――
 疑いを口に出さず、ただ確認するという選択をした。

「でも、確認はしておきたいんです」

 そう言って、彼は棚の奥にある別の資料を引き出した。

「同時期に提出された、他国貴族の婚約書類です」

 数通の書類を並べてみる。

 すると、違いは明確だった。

 証人の数。
 補足資料の厚み。
 筆跡のばらつき。

「……やっぱり、おかしい」

 それは、感情ではなく、
 比較した結果としての違和感だった。

 その頃。

 執務室では、オスカー・フォン・ルーヴェンが、満足そうに椅子に座っていた。

「最近、城がよく回っている」

 彼は、そう言って笑う。

「無駄な議論が減った」

 それは事実だった。

 議論が減ったのではない。
 発言する人間が減っただけだ。

「フローラのおかげだな」

 オスカーは、婚約者を見る。

 フローラ・エヴァンスは、いつも通り、静かに微笑んでいた。

「殿下が、正しく導かれているからです」

 その言葉に、オスカーは疑いを抱かない。

 抱く理由が、もう存在しないからだ。

 一方、文書管理室。

 エルンストは、調査結果を一枚のメモにまとめていた。

 誰にも見せるつもりはない。
 報告するつもりもない。

 ただ、自分の中で整理するため。

「……偽造、ではない」

 彼は、静かに呟く。

「でも、“作られすぎている”」

 完璧すぎる経歴。
 隙のない署名。
 欠落した時間。

(……人を騙すために、整えられた形)

 その考えに至った瞬間、
 背中に冷たい汗が流れた。

 だが、彼はすぐに首を振る。

「考えすぎだ」

 今は、そういう時代ではない。

 疑えば、
 自分が消える。

 エルンストは、メモを封筒に入れ、
 私物の書類に紛れ込ませた。

 ――封印するつもりで。

 その夜。

 フローラは、自室で静かに紅茶を飲んでいた。

 鏡に映る顔は、いつも通り穏やかだ。

(……調べ始めた人間がいる)

 それは、直感だった。

 理由はない。
 兆候も、報告もない。

 だが、
 “空気”が変わった。

(面白い)

 内心で、そう思う。

(偶然が、動き始めた)

 彼女――いや、彼は、焦らない。

 今はまだ、
 違和感は点でしかない。

 線にならない限り、
 脅威ではない。

 一方。

 遠く離れた地で、
 マルティナ・ヴァインベルクは、
 別の報告書を読んでいた。

「……経歴に空白?」

 彼女は、指で紙をなぞる。

(やっぱり)

 それは、確信に近い感覚だった。

(誰かが、調べ始めている)

 マルティナは、静かに目を閉じる。

 ここまで来たら、
 もう無関係ではいられない。

(……嫌な予感しかしない)

 だが、同時に。

 あの国が、
 壊れ切る前に止められる可能性が、
 まだ残っていることも、理解していた。

 偶然から始まった調査。
 誰の正義でもなく、
 誰の悪意でもない。

 ただの「不自然」。

 それが、
 この物語を――
 次の段階へ進める引き金になる。
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