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第12話「消えかけた名前」
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第12話「消えかけた名前」
それは、失踪と呼ぶには、あまりにも静かだった。
「……エルンストが、来ていません」
文書管理室で、朝の点呼が終わった直後。
先輩書記官が、困惑した声で言った。
「体調不良では?」
誰かが、そう言って済ませようとする。
だが、違和感は残った。
エルンストは、無断で欠勤する人間ではない。
前日も、普段通り業務を終えていた。
「昨日の帰り際、何か言っていましたか?」
別の書記官が尋ねる。
「いいえ……」
誰も、心当たりがない。
それでも、その場は解散となった。
理由は簡単だ。
深掘りしてはいけない空気が、
すでに城全体を覆っていたからだ。
一方、その頃。
王城の奥、
使われていない控えの間で、
エルンストは硬い椅子に座らされていた。
手枷はない。
だが、出口は塞がれている。
「……質問に答えてもらう」
向かいに座る男は、淡々とそう言った。
「君が、何を調べていたのか」
エルンストは、喉を鳴らす。
「私は……通常業務を」
「嘘は、つくな」
低い声。
感情はない。
「フローラ・エヴァンスに関する資料を、比較していたな?」
その名を聞いた瞬間、
エルンストの背中に、冷たい汗が走った。
(……どこまで、知られている?)
「単なる、形式確認です」
必死に、平静を装う。
「職務上、当然の――」
「“当然”ではない」
男は、きっぱりと言った。
「今、殿下の婚約者を疑う行為は、
国家への不信と見なされる」
その言葉は、脅しではない。
事実の通達だった。
「私は、疑ってなど……」
「結果がどうであれ、
“疑ったように見えた”」
それで十分だった。
エルンストは、唇を噛みしめる。
(しまった……)
調べるつもりはなかった。
暴く気もなかった。
ただ、
書類が“揃いすぎていた”。
それだけだ。
「……君は、忠誠心を示す必要がある」
男は、静かに続ける。
「この件について、
これ以上関わらないと誓えるか?」
選択肢は、ない。
「……はい」
エルンストは、そう答えた。
声が、震えないように。
「よろしい」
男は、立ち上がる。
「では、しばらく休暇を取るといい」
それは、命令だった。
表向きには、“保護”。
実際には、隔離。
数時間後。
エルンストは、城外の安宿に送り出された。
誰にも告げられず。
誰にも見送られず。
名前は、
文書管理室の名簿から、
一時的に消された。
――事故のように。
その日の夕刻。
フローラ・エヴァンスは、報告を受けていた。
「書記官が一人、
過労により休養とのことです」
淡々とした報告。
フローラは、紅茶に口をつけたまま、頷く。
「そうですか」
それ以上、何も言わない。
だが、内心では理解していた。
(……早い)
自分は、まだ何もしていない。
それなのに、
周囲が勝手に“守り”を始めた。
(でも、悪くない)
恐怖は、
最も効率のいい防壁だ。
夜。
オスカー・フォン・ルーヴェンは、
執務室で書類を眺めていた。
以前より、
ずっと数が減っている。
「最近、報告が少ないな」
何気なく言う。
「殿下に、不要な負担をかけぬよう、
整理されているのです」
フローラの声は、穏やかだ。
「……そうか」
オスカーは、深く考えない。
考える必要が、ない。
余計な情報は、
混乱を招くだけだと、
彼は信じている。
一方。
城外の安宿で、
エルンストは、一人、封筒を握りしめていた。
中には、あのメモ。
フローラの経歴に関する、
小さな違和感の記録。
(……消される)
直感が、そう告げていた。
このまま何もしなければ、
名前だけが、
ゆっくりと忘れられる。
(……それだけは、嫌だ)
彼は、震える手でペンを取った。
宛名は、一つしか思い浮かばない。
――マルティナ・ヴァインベルク。
かつて、
王太子の婚約者だった女性。
止める役を、
追い出された人。
(あなたなら……)
エルンストは、短い手紙を書いた。
証拠ではない。
告発でもない。
ただ、
「おかしいと思った」
その事実だけを、
正確に書き残す。
手紙を封じた瞬間、
彼は、ようやく息を吐いた。
同じ頃。
マルティナは、
その手紙が届く未来を、
まだ知らない。
だが、
彼女の元へ向かって、
確実に――
“事故の結果”が動き出していた。
調査は、意図せず始まり、
意図せず潰される。
だが、
潰しきれなかった“違和感”は、
誰かの手に渡る。
そして、それが――
次の火種になる。
---
それは、失踪と呼ぶには、あまりにも静かだった。
「……エルンストが、来ていません」
文書管理室で、朝の点呼が終わった直後。
先輩書記官が、困惑した声で言った。
「体調不良では?」
誰かが、そう言って済ませようとする。
だが、違和感は残った。
エルンストは、無断で欠勤する人間ではない。
前日も、普段通り業務を終えていた。
「昨日の帰り際、何か言っていましたか?」
別の書記官が尋ねる。
「いいえ……」
誰も、心当たりがない。
それでも、その場は解散となった。
理由は簡単だ。
深掘りしてはいけない空気が、
すでに城全体を覆っていたからだ。
一方、その頃。
王城の奥、
使われていない控えの間で、
エルンストは硬い椅子に座らされていた。
手枷はない。
だが、出口は塞がれている。
「……質問に答えてもらう」
向かいに座る男は、淡々とそう言った。
「君が、何を調べていたのか」
エルンストは、喉を鳴らす。
「私は……通常業務を」
「嘘は、つくな」
低い声。
感情はない。
「フローラ・エヴァンスに関する資料を、比較していたな?」
その名を聞いた瞬間、
エルンストの背中に、冷たい汗が走った。
(……どこまで、知られている?)
「単なる、形式確認です」
必死に、平静を装う。
「職務上、当然の――」
「“当然”ではない」
男は、きっぱりと言った。
「今、殿下の婚約者を疑う行為は、
国家への不信と見なされる」
その言葉は、脅しではない。
事実の通達だった。
「私は、疑ってなど……」
「結果がどうであれ、
“疑ったように見えた”」
それで十分だった。
エルンストは、唇を噛みしめる。
(しまった……)
調べるつもりはなかった。
暴く気もなかった。
ただ、
書類が“揃いすぎていた”。
それだけだ。
「……君は、忠誠心を示す必要がある」
男は、静かに続ける。
「この件について、
これ以上関わらないと誓えるか?」
選択肢は、ない。
「……はい」
エルンストは、そう答えた。
声が、震えないように。
「よろしい」
男は、立ち上がる。
「では、しばらく休暇を取るといい」
それは、命令だった。
表向きには、“保護”。
実際には、隔離。
数時間後。
エルンストは、城外の安宿に送り出された。
誰にも告げられず。
誰にも見送られず。
名前は、
文書管理室の名簿から、
一時的に消された。
――事故のように。
その日の夕刻。
フローラ・エヴァンスは、報告を受けていた。
「書記官が一人、
過労により休養とのことです」
淡々とした報告。
フローラは、紅茶に口をつけたまま、頷く。
「そうですか」
それ以上、何も言わない。
だが、内心では理解していた。
(……早い)
自分は、まだ何もしていない。
それなのに、
周囲が勝手に“守り”を始めた。
(でも、悪くない)
恐怖は、
最も効率のいい防壁だ。
夜。
オスカー・フォン・ルーヴェンは、
執務室で書類を眺めていた。
以前より、
ずっと数が減っている。
「最近、報告が少ないな」
何気なく言う。
「殿下に、不要な負担をかけぬよう、
整理されているのです」
フローラの声は、穏やかだ。
「……そうか」
オスカーは、深く考えない。
考える必要が、ない。
余計な情報は、
混乱を招くだけだと、
彼は信じている。
一方。
城外の安宿で、
エルンストは、一人、封筒を握りしめていた。
中には、あのメモ。
フローラの経歴に関する、
小さな違和感の記録。
(……消される)
直感が、そう告げていた。
このまま何もしなければ、
名前だけが、
ゆっくりと忘れられる。
(……それだけは、嫌だ)
彼は、震える手でペンを取った。
宛名は、一つしか思い浮かばない。
――マルティナ・ヴァインベルク。
かつて、
王太子の婚約者だった女性。
止める役を、
追い出された人。
(あなたなら……)
エルンストは、短い手紙を書いた。
証拠ではない。
告発でもない。
ただ、
「おかしいと思った」
その事実だけを、
正確に書き残す。
手紙を封じた瞬間、
彼は、ようやく息を吐いた。
同じ頃。
マルティナは、
その手紙が届く未来を、
まだ知らない。
だが、
彼女の元へ向かって、
確実に――
“事故の結果”が動き出していた。
調査は、意図せず始まり、
意図せず潰される。
だが、
潰しきれなかった“違和感”は、
誰かの手に渡る。
そして、それが――
次の火種になる。
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