『胸の大きさで婚約破棄する王太子を捨てたら、国の方が先に詰みました』

鷹 綾

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第19話「静かに、先手を打ったのは」

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第19話「静かに、先手を打ったのは」

 フローラ・エヴァンスは、その夜、眠れなかった。

 正確に言えば、
 眠る必要がないほど、頭が冴えていた。

(……想定より、早い)

 オスカーの視線。
 問いの角度。
 そして――沈黙。

 どれもが、
 これまでの“殿下”とは違っていた。

(疑われたわけじゃない)

 そこは、まだ救いだ。

 だが、
 信じられてもいない。

(厄介ね……)

 フローラは、静かに息を吐き、机の上の書類に手を伸ばした。

 それは、
 王城内の人事記録。

 古いもの。
 目立たない部署。
 すでに引退した者、左遷された者。

(ここを、押さえる)

 彼女は、
 自分の“過去”が、
 完全に綺麗すぎることを理解していた。

 だからこそ、
 説明役を作る必要がある。

 自分ではなく、
 第三者。

 偶然、
 勝手に、
 善意で動いた人物。

「……あなたにしましょう」

 名前を、指でなぞる。

 地方勤務経験のある元文官。
 現在は、静かな余生。

(“昔、助けただけ”という形にする)

 フローラは、
 手紙を書いた。

 丁寧で、
 感謝に満ちた文面。

 だが、
 要点は一つ。

 ――余計なことは、
 思い出さないで。

 一方。

 オスカー・フォン・ルーヴェンは、
 まったく別の動きをしていた。

 彼は、
 誰にも告げず、
 ある人物を呼んでいた。

 マルティナ・ヴァインベルク。

 ……ではない。

 彼女の名前は、
 ここでは出さない。

 代わりに、
 彼が選んだのは、
 記録を読む人間だった。

「この書類を見てほしい」

 オスカーは、
 一冊の古い台帳を差し出す。

「君の判断でいい。
 感想だけ聞かせてくれ」

 相手は、
 戸惑いながらも、
 ページをめくる。

「……妙ですね」

 すぐに、
 そう口にした。

「どこが?」

「経歴の繋がりが、
 途切れすぎています」

 オスカーは、
 内心で頷いた。

(やはり)

「不自然か?」

「ええ。
 不正とは言えませんが……
 人がいた痕跡が薄すぎる」

 その言葉を聞いて、
 オスカーは確信した。

 これは、
 自分だけの違和感ではない。

「ありがとう」

 それだけ言って、
 彼を下がらせる。

 オスカーは、
 一人になると、
 机に肘をついた。

(フローラは、
 先に動く)

 それは、
 確信に近かった。

 だからこそ。

(こちらも、
 先に“確認の場”を用意する)

 それは、
 尋問でも、
 裁きでもない。

 ただの、
 偶然の再確認。

 翌日。

 王城に、
 一人の老文官が呼ばれた。

 表向きは、
 過去の制度整理に関する
 ヒアリング。

 形式上、
 何の問題もない。

 だが。

 オスカーは、
 その場に、
 フローラを同席させた。

「……これは?」

 フローラの声が、
 わずかに硬くなる。

「偶然だ」

 オスカーは、
 淡々と言った。

「過去の話を聞くだけだ」

 老文官は、
 緊張した面持ちで、
 椅子に座る。

「では、
 当時の推薦状について」

 オスカーが、
 話を振る。

「何か、覚えていることは?」

 老文官は、
 一瞬、視線を彷徨わせた。

 フローラの方を見る。

 そして、
 ゆっくりと首を振った。

「……いえ」

 その答えを聞いて、
 フローラは、
 内心で安堵した。

(間に合った)

 だが。

 次の言葉が、
 すべてを変えた。

「ただ……」

 老文官が、
 言い淀む。

「一度だけ、
 形式の相談を受けた記憶が」

 フローラの指先が、
 わずかに震えた。

「その時、
 “本人の意向ではない”
 と言われたのが、
 妙に印象に残っていまして」

 オスカーは、
 黙って聞いている。

 遮らない。

 否定しない。

 ただ、
 事実を積ませる。

「名前は、
 名乗られませんでした」

 老文官は、
 そう前置きしてから、
 続けた。

「ですが……
 フローラ様の名を、
 出していました」

 沈黙。

 空気が、
 はっきりと変わる。

 フローラは、
 即座に口を開いた。

「それは、
 私ではありません」

 声は、
 まだ落ち着いている。

「名を利用されたのでしょう」

 理屈は、
 通っている。

 だが。

 オスカーは、
 初めて、
 その言葉を
 そのまま受け取らなかった。

「……そうか」

 それだけ言う。

 肯定も、否定もない。

 それが、
 何よりも重かった。

 面談は、
 それ以上進まなかった。

 老文官は、
 解放される。

 フローラは、
 執務室を出る際、
 一度だけ、
 オスカーを見た。

(……まだ、決定打じゃない)

 だが、
 確実に、
 地盤は崩れている。

 一方。

 オスカーは、
 一人、
 椅子に深く座り込んだ。

「……動いたな」

 それは、
 確信だった。

 フローラは、
 先に手を打った。

 だが、
 それ自体が、
 答えでもある。

 彼の脳裏に、
 マルティナの言葉が、
 ふと蘇る。

 ――国内の人間を、
 これ以上巻き込むべきではありません。

 あの時、
 深く考えなかった言葉。

 だが今は、
 分かる。

(巻き込んでいたのは、
 俺自身だ)

 そして。

 巻き込まれていた者は、
 まだ、
 一人残っている。

 ――自分。

 オスカーは、
 静かに決意する。

「……次は、
 逃がさない」

 それは、
 怒りでも、
 復讐でもない。

 ただの、
 確認の終点だった。


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